見出し画像

表現の自由戦士と呼ばれる人達の思想とは何なのか

現在このnoteでは「こんな害悪男オタクにならないように」と題して、オタクの良くない部分をピックアップし、それをシリーズ化する試みを予定している。そして、その第1弾としてネットをやっている人なら誰もが耳にしたことがあるだろう「表現の自由戦士」とは何者なのかということをテーマに据えた。

§「表現の自由戦士」とは「表現リバタリアン」なのか

「表現の自由戦士」という言葉を見れば、一般的には「表現の自由を大事にする人達」と思うだろう。さらに言えば、「戦士」とまで言うのだから「極端なまでに表現の自由を主張する人達」と解釈することもできる。ここで政治的な言葉を借りれば、「表現の自由戦士」とはリバタリアン(自由至上主義者)と呼ばれる「国家からのあらゆる規制を排除し、全ての人達に全面的な自由を認める人達」の表現の自由バージョンなのではないかとまず仮定してみよう。

「表現の自由戦士」はアニメ・漫画・ゲーム表現について全面的な自由を主張しながら、アニメなどを批判する人がいると「表現の自由の侵害だ!」「表現規制派!」とすぐに主張し、さらには批判を「放火」「燃やされた」「殴られた」とあたかも犯罪行為であるかのように形容することでもよく知られている。しかしながら、表現とはアニメ・ゲームなどの創作表現にとどまらず、あらゆる言論や批判などの形態もまた表現であり、「全ての表現の自由」を認めるのであれば「批判の自由」は当然ながら表現の自由として認められるべきものであり、断じて批判は「表現の自由の侵害」「表現規制」には当たらない。リバタリアン的世界において表現の自由の侵害にあたるものがあるとするなら、それは国家が表現の自由の介入しようとしたときである。

このように「表現の自由戦士」は「本来表現の自由で認められるべき『批判という表現』を『表現の自由の侵害』と見なす」という矛盾をすでにきたしているが、さらにおかしなことに彼らは「批判は表現の自由への侵害」であるとしながら、彼ら自身はその「他者からの批判」に対して平気で批判をするのである。これは紛れもないダブルスタンダードである。もし「批判が表現の自由への侵害」だとするなら、「他者からの批判に対して自らが行う批判もまた表現の自由の侵害」になるためである。

これらの「表現の自由戦士」の行動基準を見る限り、彼らは断じて「表現リバタリアン」ではないし、率直に言うなら、単に自分の都合のいいように「表現の自由」という言葉を振り回しているだけのようにしか見えない。そこで、少し違った視点から彼らの行動基準を見てみよう。

§「表現の自由戦士」は創作者至上主義者なのだろうか

「表現の自由戦士」の言動を見ていると、「表現の自由」というよりは「アニメ・漫画・ゲームなどの男オタク的創作の自由」、さらには「男オタク的創作に対して批判されない権利」を求めているように見える。また、彼らの中では「表現の自由」=「創作の自由」となっているから、「批判の自由も表現の自由だぞ」と言われてもピンと来ないところもあるのだろう。もっともこの時点でも「創作に対して批判されない権利」という、他者が作品に対して批評する権利を制限しようとしており、本当に表現の自由を求めているのか怪しいと言わざるをえない点があるが、彼らが「表現の自由」そのものよりも「創作者の権利、あるいはその特権を求める立場」であると考えれば理解できるところがある。しかし、本当に「表現の自由戦士」達は創作者を徹底的に守る立場に立っているのだろうか。

§「表現の自由戦士」に血祭りに上げられた創作者達

実はそんなことはない。実際には「表現の自由戦士」は「俺達はアニメオタクであるから、そのへんの一般人と違ってアニメをはじめとした創作物に好きなだけ物申す権利がある」という態度で、数々の創作物を血祭りに上げてきた。「けものフレンズ2」に浴びせられた様々な中傷はアニメに少しでも興味がある人であれば必ずや耳にしたことがあるだろう。twitterで展開された「100日後に死ぬワニ」は連載中は好評だったものの、最終回と連動した宣伝が不評を買ったことから、それ以降はもはや作品そのものが嘲笑の対象とされてしまった。遊戯王の作者が描いた政治批判のイラストは「表現の自由戦士」からの苛烈な攻撃に遭い、最終的に撤回させられている。「バンドリ」では、「今井リサ」の弟を会話に登場させたところ猛批判が起こり、キャラクターの存在そのものが消滅させられ、運営会社が謝罪に追い込まれた。またラブライブの「ぬまづ茶」については、デザインが典型的な萌え絵ではなく穏当な絵柄であったために「表現規制反対古参」を名乗る男オタクが激怒し「客ナメすぎ。不買奨励」と切って捨てている。

表現の自由戦士によるラブライブの「ぬまづ茶」不買奨励

引用元:https://twitter.com/tk_takamura/status/1244672733872439301
魚拓:https://archive.ph/PlIyI

また女性漫画家である楠木まき氏は自らのジェンダー観に関する漫画を描いたところ、同じく「表現規制反対古参」を名乗る男オタクから「筆を折れ」と創作者へのリスペクトが全くないどころか、それこそ「表現の自由に対する圧力ではないか」としか言いようのない言動を受けている。

昨今最もよく頻繁に見ることができるものとしては、映画やアニメの主要キャラクターに黒人を起用した際に「表現の自由戦士」から「ポリコレ臭い」と、創作者や創作物に苛烈な罵詈雑言が浴びせられるケースが挙げられるだろう。

すなわち、「表現の自由戦士」は「創作者の自由」を重んじているように見えて、実際には全くそうではないことがわかる。

§「表現の自由戦士」の本質は「エロ表現を守ること」なのか

一般人から表現への批判を受けて、表現の自由戦士が烈火のごとく怒るのは「性的誇張された表現」であることが多い。それゆえ「表現の自由戦士」を「エロ表現の自由戦士」と揶揄する向きも多い。では、表現の自由戦士の本質は「エロ表現さえ守られればいい」という思想を根幹に持つ人達と定義していいのだろうか。しかし、実際には彼らは単に「アニメ絵に見られる性的誇張への批判や揶揄を一切許さないだけの集団」ではないことを次の例が示している。

性的誇張のある絵のおかしさで盛り上がる表現の自由戦士達

引用元:https://twitter.com/sara_sheena/status/656096129285664768
魚拓:https://archive.ph/QBQUk

もし男オタク以外の一般人がこの絵を「何これ? スカートにケツを挟んで歩いてんのか? しょうもない性的誇張すんなよ」と揶揄しようものなら、男オタクの袋叩きに遭い、「こんなものただの線だろ! これをエロいという奴がエロいんだよ!」というお決まりの展開が見られるだろう。しかし、揶揄した当人が男オタクだと不思議なことに和気藹々とその性的誇張ぶりを「おかしなもの」として認識しながら盛り上がるのである。言い方を変えれば、男オタクに指摘されれば「性的誇張のおかしさ」を理解できるということは、一般人に指摘されて「ただの線だろ!」と激怒しているときも本当はその描写が「性的誇張のための記号」であることを読めているということでもある。

結局、彼らにとって本当に大事なのは、「エロ表現への批判を許すか許さないか」ではなく、「一般人による男オタク好みの絵への批判は許されないが、男オタクであれば許される」というところにこそあるのだ。

§「表現の自由戦士」は本当に「表現の自由」の支持者なのか

表現リバタリアンについて解説したところで少し触れたが、表現の自由を支持する者が必死で守るべきものの一つは「国家による表現の法規制を防ぐこと」、すなわち「国家から表現が自由であること」である。

「表現の自由戦士」は批判を受けただけで相手を安直に「規制派」と呼ぶが、本来「規制派」とは表現に関して「国家による法規制」を求める者を言う。

そして「表現の自由戦士」はしばしば男オタク好みの創作への批判者に対して、「創作への批判が法規制されればいいのに」と「『批判という表現の自由』への法規制」を求めることがあるが、ぜひこれをご覧いただきたい。

創作物への批判表現への法規制を求める表現の自由戦士

引用元:https://twitter.com/nek0jita/status/1536923948293627904
魚拓:https://archive.ph/j3hoy

率直に言って彼らに「表現の自由」の守護者を標榜する資格はない。自分とは異なる表現を封殺するために法規制でもって対抗しようする勢力は「表現の自由戦士」でも何でもなく、紛うことなき「表現規制派」である。

§国家からの規制に順応的で批判を封殺することしか考えてない「表現の自由戦士」

さらにこちらの発言を見てもらおう。

表現の自由戦士系弁護士の大御所も表現の自由戦士を「体制順応的」と評価


引用元:https://twitter.com/otakulawyer/status/1603635719834337282
魚拓:https://archive.is/YnG4y

ヤマベン氏は長年表現の戦士側で活動してきた大御所弁護士である。その彼が、表現の自由戦士は「体制順応的」で「表現の自由を抑圧する主体が公権力だけだったら生まれていない」と言うのだ。長年表現の自由戦士を見てきた彼の目をもってしても、表現の自由戦士は最も対抗せねばならないはずの「公権力による法規制」に「容認的」であると映っているのだ。これのどこが表現の自由のために戦う者達と言えるのか。そして彼らが敵視しているのはやはり「フェミとポリコレリベラルに対する反発」、すなわち「一般人による批判表現」である。結局のところ、やはり彼らは肝心の「国家による法規制」には甘く、自分達への「批判表現への封殺」しか考えていない、表現の自由の敵でしかないのである。

§「表現の自由戦士」とは結局何なのか

これまで考察してきた「表現の自由戦士」の行動原理をまとめると次のようになる。

・男オタク好みの創作への一般人による批判は「表現への放火」「燃やされた」「殴られた」「表現の自由への侵害」であり、とりわけジェンダー論に基づく批判は法規制で罰するべきである

・男オタクが気に入らない創作への男オタクによる批判は「放火」でも「表現の自由の侵害」でもなく正当である

・批判という表現は男オタクや男オタク好みの創作に一般人から向けられた場合は「放火」「殴打」であり、表現の自由の侵害だが、男オタクが他人にする場合は正当である

「表現の自由戦士」は特にジェンダー論に基づく批判に対しては非常に過敏で、表現の自由戦士系議員である赤松健氏も「過度なジェンダー平等と戦う」と発言するなど、「批判という表現に対する法規制や政治的圧力」は先に挙げた人物だけではなくすでに「表現の自由戦士」全体の政治的目標になりつつあるととらえてよく、もはや彼らは「表現の自由を大事にする勢力」ではなく「男オタク好みの創作表現を批判する人達の表現を制限する表現規制派」と見なすべきであろう。

これらの事実から伝わるのは「創作物は男オタクの領土であり、また俺達(=男オタク、表現の自由戦士)は創作者より偉いから批判をしても許される」、「一般人ごときが創作に口を出すなどおこがましい」という、男オタク>>>>>創作者>>>>>一般人という幼児的な人間観である。すなわち「表現の自由戦士」とは、「表現の自由」という言葉を振り回した単なる「俺達男オタクに創作表現について特権を与えろ、一般人が口を出してくるなら罰しろ」という「男オタクの表現特権論」とでも言うべき考えの持ち主であるとまとめることができる。無論、このようなものは「子どもの駄々こね」であって、思想と呼ぶに値しないし、「表現の自由戦士」などという大袈裟な呼称はもはやもったいなく、その幼稚さを考えれば「表自園児」とでも呼ぶのがお似合いであろう。

男オタク的な絵が好きな人にとっては、批判をされるといい気分がしないのは理解できる。しかし、その行く先がこのようなダブルスタンダードの塊のような、ただの「男オタクに創作に対する特権を与えろと喚くだけのわがまま」であってのいいのかどうか改めて考えてみてほしい。

また、結局のところ表現の自由戦士が唱える表現論はどれも最終的には「一般人は男オタクの領土たる創作物に踏み込むな。創作物は男オタクのものだから男オタクは何してもいいんだよ」というところに帰着するので、彼らの主張に真面目に取り合う必要はないと言っていいだろう。

この記事では表現の自由戦士の基本となる思想について分析したが、次回記事では彼らが議論(もどき)を仕掛けてくる際に多用してくる様々な詭弁について掘り下げてみた。ぜひとも続けて読んでみていただきたい。

「こんな害悪男オタクにならないように」シリーズの第2回記事「シーライオニングとネット詭弁」に続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?