見出し画像

女性の性的客体化と主体

「傷つかずに男害オタへの有効なカウンターをするために」シリーズの第2回記事である。前回は男害オタへのカウンターを行うための心構えなどのごく基本的な話だけにとどめたが、今回からはどのような論を立てれば説得力のあるカウンターができるかという問題の具体論へと踏み込んでいる。理解に時間がかかるところもあるかもしれないが、何度か読み直してぜひ自らの武器にしてほしい。

たとえば駅に大きな萌えエロ広告が多く貼り出されたとき、あなたはその問題点をどうとらえ、どのように批判するだろうか。「過剰に性的な広告を大きく貼り出すべきではない」と「性的」に焦点を置くもの、「駅という小中学生も利用する場所で性的な広告を貼り出すのは青少年保護の観点から適切でない」と「青少年保護」に焦点を置くもの、「エロそのものは否定しないが、どういう場で出すかTPOを考えるべき」と「TPO」に焦点を置くもの、「公的な場で性的な絵を大きく貼り出すのはセクハラになりうる」と「セクハラ」に焦点を置くものなど、いろいろな論点を考えることができる。

もちろんこのどれも間違いであるとは言えないし、実際に批判はどのような角度から主張してもいい。しかし、どのみち批判をするのであれば、「隙の無い強い理論」を持っておくと、批判の説得力を増すことができ、より広がりを期待することができる。

そこで私が強く推奨したいのが、「主体と客体」をもとにそれを発展させた「性的客体化」をテーマにした批判である。

これまで表現の自由戦士の発言を多く見てきたが、今まで「主体と客体」をまともに理解できている人物を一人も見たことがない。そして主体と客体を混同してるがゆえの詭弁がしばしば登場するぐらいだ。しかしそういうときに主体と客体の意味をしっかりと把握していれば、そのような詭弁を述べる奴がいたところで、「前者は主体としての女性で、後者は女性を性的客体化したものであって全然違う」とバサッと一発で切ることができる。

また、単に「性的」であることを話の中心に置くのではなく、「性的客体化」の観点から踏み込むと、「女性を性的なモノとして扱う」という女性差別の問題になり、それによって議論の質により深みを持たせることができる。そうすることによって単に「エロはいいか否か、エロのTPOはどうあるべきか」というレベルの話よりも上の段階に進むことができるのである。

§主体と客体


それではまず主体と客体とは何なのかというところから考えていこう。まず、主体とは「自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの」のことである。とりあえず動物を除いて考えるとすると、この説明の時点で主体になりうるのは生きている人間だけであることがわかる。それに対して、客体とは「主体の認識・行為などの対象となるもの」のことである。ここからもわかるように、主体=能動的な存在、客体=(主体の対象となる)受動的な存在となっている。端的に言ってしまえば、「主体が観賞するためのモノ」が客体であると言えるだろう。また、この主体と客体は互いに対義語の関係となっている。そうであるがゆえに、「ある人が客体化されるほど、その人の主体性は毀損される」という関係にあると言っていい。

もちろん漫画やアニメのキャラクターなどは客体であり、主体になることはない。現実世界においては、漫画は主体である人間が観賞するための対象である以上、客体にしかなりえない。漫画の世界の中においてそのキャラクターが「主体的な振る舞い」をすることはあるが、それはその漫画の世界というパラレルワールドが存在した場合に、その世界の中から見たときには主体と呼ぶことはできるだろうが、実際にはそんなパラレルワールドは存在せず、漫画のキャラクターは現実世界から認識される対象なので、どうあがいても客体である。

なぜこのような当たり前のことをわざわざ数行もかけて書いたかというと、自らネット論客を名乗るパパミルク太郎が恥ずかしげもなく「宇崎ちゃんは主体である」とのたまったことがあるためである。論外としか言いようがないが、いかに表自男害オタ界隈が「主体と客体」を全く理解できていないかを示す好例であろう。

§性的客体化とは何か


女性と性的客体化は切っても切れない関係にある。なぜなら今の男尊女卑の世界では、「男が性的主体で、女は性的客体」という価値観が今もなお極めて根強く定着しているからである。そのため、女性はあらゆる場面において男によって性的客体化されていると言っていいだろう。

そもそも「女性の性的客体化」とはどのようなものであるかを、客体の意味に沿って考えてみると、「(性的主体である男が)女を性的に観賞するためのモノとすること」と言うことができるだろう。様々な場面において男が女性を観賞対象とすることは多いし、また男が「いやぁ、女性がいると目の保養になるよ」と言うような行為も「女性を観賞対象としている」という意味であり、まさに女性を性的客体にしていることが表れている。

ここで非常に大きなポイントとなるのが、「客体化」とはすなわち「モノ化」であるということである。客体とは主体性のない存在であり、あくまで「主体にとっての観賞対象(=観賞するためのモノ)」なのである。ここで、主体性が奪われているということに注意しておかなければならない。だからこそ、「女性の性的客体化」は女性差別と密接に結びついた問題なのである。また、そうしたことから「性的客体化」を「性的モノ化」のように表現することもある。どちらを用いてもいいが、厳密性を重視するときは前者を、わかりやすさを後者というように使い分けてもいいだろう。

§ATSUGIの「ラブタイツ」に見る性的客体化


ここまで性的客体化についての説明を行ってきたが、「たしかに言葉としてはわかるけど、まだ感覚としてはピンとこない」と感じる人が多いかもしれない。そこで「性的客体化とは何か」がはっきりわかる例として、かつて問題となった「ATSUGIのラブタイツ」企画を取り上げてみよう。

多くのイラストレーターにATSUGIのタイツを穿いた絵を描いてもらった「ATSUGIのラブタイツ」企画は購買層である女性から猛烈な批判を浴び、大失敗に終わったことは記憶に新しいだろう。では、いったい「ATSUGIのラブタイツ」は何を失敗したのだろうか。

それは「タイツフェチ男を主体に、タイツを穿いた女性をその男の性的な観賞対象」として描いたことに尽きる。これを「性的客体化」というワードを使って表現し直せば、「タイツフェチ男を主体に、タイツを穿いた女性を性的客体化」となる。そう、「ATSUGIのラブタイツ」の失敗はまさに「女性の性的客体化」によるものだったのだ。

タイツメーカーであれば、絵の中でも「女性が主体」と観賞者が感じられるように描かなければ購買層に訴求するものにはならなかった。それをなぜか「タイツフェチの男を主体にし、タイツを穿いた女性を性的客体化」した絵を多数公開したことによって、女性達から「私達は自分の意思でタイツを穿く(=主体)なのであって、男にエロく見られる対象(=性的客体)になるためにタイツを穿くんじゃない!」とNOを突き付けられたのだ。実際にこれでは、ATSUGIはまるで「どうぞどうぞタイツフェチの男の皆様方、ウチのタイツ穿いた女性はエロいんでどうぞ観賞対象にしてくださいね」と言わんばかりであり、購買層から強烈に否定的な反応を受けたのは当然のことであった。

ところで男害オタは「若い子は萌え絵が好きだから問題ない」「フェミは年寄りだからタイツを穿かない」と言っていたが、もちろん論外である。

§「宇崎ちゃん」に見る性的客体化


「宇崎ちゃん」と日本赤十字の献血のコラボも1枚目のデザインが大きく問題視されたが、ここではむしろ1枚目と2枚目の反応の違いに注目したい。1枚目のクリアファイルは単行本の絵をそのまま流用したものであり、これは宇崎ちゃんの性的客体化が激しく、これが問題となったわけである。しかし「宇崎ちゃん」と日本赤十字のコラボは第2弾まで続き、2枚目では宇崎ちゃんが登場しつつも漫画形式で献血の手順を説明するようなデザインへと大きく変更されていた。「宇崎ちゃん」という作品そのものを全く評価しない人の間ではコラボ第2弾も不評の声はあったが、むしろ全体としては2枚目のデザインは批判がほとんどなくなり、「これでいいんだよこれで」と声が聞かれることが多かった。ではいったい1枚目と2枚目は何が違っていたのか。これも端的に言ってしまえば、「1枚目は宇崎ちゃんの性的客体化が激しかったが、2枚目は性的客体化の度合いが大幅に下げられていたから」と言ってしまうことができる。「性的客体化」という言葉一つであっさりと説明がつくのである。

そしてこの頃、男害オタは「1枚目と2枚目の何が違うのかわからん。2枚目がいいと言うならフェミは説明してみろ」とシーライオニングをしていた。

§女性の性的客体化の典型例


女性を性的客体化する際の典型例は、女性の体の一部のパーツのみに焦点を当てる行為である。胸のあたりだけを撮影する、尻のあたりだけを撮影する、女子高生の生脚だけを撮影する、これらはどれも人間である女性を「性的なパーツ」のみに落とし込む典型的な性的客体化の例である。たとえば性的なニュアンスを強めるために、あえて顔だけ写真から外すことなどもあるが、これも性的客体化の手法である。

そして女性の体の一部のパーツのみに焦点を当てる行為と言えば、胸の大きな女性を「巨乳ちゃん」と呼んだりすることも当然ながら性的客体化にあたる。本来は主体である女性を胸の付随物のように扱うことによってモノ化するわけである。こうした手法は昔から行われ、「巨乳」という言葉が流行る前には「ボイン」「デカパイ」が使われていたが、いずれも女性の一部のパーツである胸だけに焦点を当てる性的客体化の文脈にあることに違いはない。

§主体/客体問題ではミラーリングは厳禁


男害オタとの議論の際にうっかりやってしまいがちなミスが「ミラーリング」である。一般的な性的客体化広告は女性を性的客体としているので、これを男性が性的客体になるように入れ替える、たとえば「男性器を極端に強調した広告がそこかしこにあっていい気分がするか?」と問うような方法である。しかし残念ながら、こうしたミラーリングはむしろ男害オタに利用されてしまうだけに終わることが多い。なぜなら、女性が性的客体化によって抑圧感情を受けるのは、普段から言葉や社会のあり方や女性表象やあらゆる場面においてつねに性的客体化の抑圧を受け続けていて、そこにさらに新たな性的客体化が行われることで「またか」とウンザリさせられるためであることが大きい。それに対して、男はもともとそうした普段からの性的客体化の抑圧を受けていないので、一つの場面だけで「性的客体化されるのは男だって嫌だろう?」と問うても、彼らには「性的客体化の抑圧」の累積体験がないため、本当にそれを嫌だと感じず、逆に「女が過剰にその性的客体化とやらに過敏になってるだけだろww」と反撃されてしまうだけである。むしろこうした場面で重要なのは、「男性と女性はあらゆる場面において非対称性があまりに大きいので、ただ単に立場を入れ替えただけの議論は無意味である」ということを知り、それをこそ主張することにある。

§おわりに


この文章を通じて「主体と客体」とは何か、「性的客体化」とは何かはおおむねおわかりいただけたと思う。しかしまだ、この文章の段階では巷にあふれる「性的客体化された女性表象は何が悪いのか」の答えにはまだ一歩足りないのだ。もちろん「性的客体化された絵を公的な場で広告として大きく掲げることは女性の性的主体性を毀損する」と批判はできるのだが、できればあと一歩強さのある論が欲しい。その点については次回記事の「性的客体化された女性表象はなぜ問題なのか」にて踏み込んでいきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?