見出し画像

こつこつ京都学

Vol.13 20240421
#座学コツコツ2 後水尾上皇 その1

こんにちは、「こつこつ京都学」主宰の佳子(よしこ)です。
毎週更新のはずが親の介護で時間をとられ、2週以上間隔があいてしまいました。気をとり直して、また続行です。

前にnoteで2回、「修学院離宮」を取り上げました。

その美しさもさることながら、離宮内の草一つ、石一つまでかかわって設計したという後水尾(ごみずのお)上皇に、私は少なからず興味をもちました。
建物や庭園の設計にかかわれるほどの素養をもつ一方で、徳川将軍家の娘を中宮に迎え、武家との衝突や葛藤が大きかったと聞きます。
いったい、どのようなキャラの持ち主なんだろう。
今日は座学した中から、後水尾上皇について書いてみようと思います。

なぜか父は三男に譲位

後水尾天皇は、1596(文禄5)年、父、後陽成天皇(以下、後陽成)の第3皇子として誕生しました。名は政仁(ただひと、即位後、読みを「ことひと」に改める)。
母は、太政大臣近衛前久(このえさきひさ)の娘、中和門院藤原前子(さきこ)。
1611(慶長16)年、父から譲られて16歳で即位、第108代天皇となります。これ、不思議ではないですか?
3番目の皇子に譲位というけれど、長男、次男はどうしたんだろう、と。

後陽成が譲位を考えたのは、豊臣から徳川へと移り変わる下剋上の終焉の時期に重なります。
そもそも後陽成は、弟の八条宮智仁親王に譲位したいと考えてきましたが、息子の親王たちがいるのにそれはおかしいではないかと武家から「待った」がかかる。この「待った」の中に、もちろん徳川家康もいます。
なぜ長男に譲位しないかについて、「後水尾天皇」の著者、熊倉功夫は、「息子の良仁親王を好きになれなかったからではあるまいか」と書いています。

えっ、そんな理由?

確かに、後陽成には「ん?」という行動が少なくありません。
まず二宮(次男)の幸勝親王を仁和寺に、ついで一宮(長男)の良仁親王も同寺に送ります。
親王や摂家の子が住持になる寺院を「門跡寺院」(もんぜきじいん)と言いますが、上の息子2人を門跡寺院に送ったのです。
次男は仁和寺で承快法親王を名乗りましたが、2年後に長男が同じ寺に入室するため、仁和寺から梶井門跡に移されてしまう…。
長男、次男とも、なんだかな〜という状況ではないでしょうか。

長男は父に皇位継承者に選んでもらえず、壬生孝亮(みぶたかすけ)の日記に「親王御方、ただ御落涙あり」と記されています。親王は寺の者以外、誰とも会おうとしなかったほど落ち込んでしまったそうです。
現代なら「毒親」による仕打ちに見えてきますよね。

一方、二人の兄が退き、三宮(三男)の政仁親王だけが残される。
元服前の子どもでしたが、なぜ父親は兄たちにそんな仕打ちをするんだよ、と傷ついてしまう。それが生涯にわたって大きな影響を及ぼします。
後水尾という諡号(しごう、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと)を自ら選んだ理由は、兄を押しやって皇位についたことで共通点のある清和天皇(右京の水尾村に御陵を作った)にあるといいます。

徳川家の娘、和子と結婚

父と子の間の確執は、なかなか溶けません。
政仁親王は、元服の儀から約3か月後に後陽成から譲位を受け、16歳で後水尾天皇(以下、後水尾)になります。ところが困ったことに、後陽成(上皇)は禁裏の書物類を後水尾(天皇)になかなか渡さない。
いわば社長のポストを譲ったのに、会長が社長に必要な書類を引き継がない。そんなこと、ありませんわね、普通。
上皇と天皇の不和は、延々と続きます。後陽成は病気になっても、息子の見舞いを頑なに拒む。
後陽成は1617(元和3)年、崩御しますが、臨終の時に対面がやっと実現。これ、どういう親子なんでしょう。

後水尾は1620(元和6)年、徳川2代将軍、秀忠の末娘、和子(まさこ)を女御とします。すでに4年前に、徳川家康は亡くなっていますが、13歳の和子を政略結婚させるあたりは、家康の、そして徳川家の悲願が実った感じでしょうか。

1624(寛永元)年、久しく絶えていた立后の儀が行われました。
武家出身の中宮は、なんと平清盛の娘徳子(建礼門院)以来。平安の次は江戸というほどスパンは大きくあいています。
こうして幕府と朝廷の融合が図られつつも、激突の幕が開きます。

朝廷に介入され、いきなり譲位

遡ること1613(慶長18)年6月、後水尾の即位の2年後、家康は「公家衆法度」「紫衣制度」を公布しています。
1615(元和)年7月、家康・秀忠連署で「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)が公布されます。
いわば、朝廷を抑制する方針を制度化し、京都所司代や付武家などを通して、朝廷の内政・特権に対する干渉をしていく設計です。
豊臣氏は滅び、いよいよ徳川氏の時代に入っていきます。

禁中並公家諸法度は、皇室に対して初めて規制をかけたことを意味します
「天皇のしごとは芸能で、中でも一番は学問だよ、政治にはタッチしないでね」
芸能とは、現代でいうそれではなく、文化一般に集中せよという意味で、幕府は宮中の人事にも介入します。
腹たつわ〜と思ったでしょう。が、逆に見ると、そう縛られてしまったからこそ、御水尾は、後に修学院離宮をつくれるほどの強大な芸能力が身につくともいえます。

後水尾の天皇在位時は、徳川幕府の創業期。
和子との結婚で外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623(元和9)年には新たに禁裏に1万石の御料(「新御料」)を献上しています。
天皇側から見れば手足を縛られて金だけかい!って感じでしょうが、お金も大切。
なぜなら、朝廷は自らの経済を幕府によって成り立たせている部分が大きいからです。


「京都を歩いているとあちこちに南天が見られた。修学院離宮の庭園にも「難を転ずる」南天が。」とキャプションをつけていたら、「南天でなくて万両ですね〜」と訂正コメントをAkikoさんからいただきました。ひゃ〜知らんかったわ。こつこつ学んでいきます。感謝。

ついで、大きなトピックス「紫衣事件」が起きます。

紫衣(しえ)とは、徳の高い僧に贈る紫色の僧衣のこと。そもそも紫衣を贈るには、天皇の勅許が必要でしたが、それにも幕府が厳しく干渉していました。
1929(寛永6)年6月、許可規定が定められているのにも関わらず、後水尾天皇は幕府の了解を得ずに大徳寺などの僧侶に紫衣着用を許可します。

後水尾、やっちゃいましたか。
幕府は、これが違法だと取り消し、抗議した大徳寺の沢庵らを流罪にしてしまいます。
幕府は、幕府の法(法度)が天皇の許可(勅許)に優先することを示したのです。
ずばり、朝廷の面目を完全につぶしたわけです。

ついで同年、三代将軍、徳川家光の乳母として有名な、お福(のちの春日局)が参内します。病弱だった家光の平癒祈願で伊勢神宮に行った帰りに京都へ立ち寄りますが、普通は無位無官の身分で宮中には上がれません。そこでわざわざ直前に、遠い祖先の血を辿り、その場しのぎで身分上の体裁を整え、参内しました。
天皇への拝謁を、武家の人間が後から取ってつけた身分で実行するのか。

そんなこんな、ありとあらゆる天皇の権威を失墜させる事象が積もり積もって、後水尾天皇の怒りは頂点に達します。
今の言葉では「逆ギレ」でしょうか。
在位19年にし、1629(寛永6)年11月8日、わずか7歳の次女、和子所生の興子内親王(明正天皇)に譲位してしまいます。
幕府に諮ることなく、誰も知らされずに、ずばっと譲位。
後水尾は上皇となり、和子は東福門院と改めます。

さあ、幕府と全面対決となるのでしょうか。どうするどうする…。

<続く>

#こつこつ京都学
#座学コツコツ
#修学院離宮
#後水尾天皇
#京都検定

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?