見出し画像

こつこつ京都学

Vol.10 202403011

#現地へGO03 「修学院離宮」その1

こんにちは、「こつこつ京都学」主宰の佳子(よしこ)です。
日ごろ思う素朴な疑問として「寺社仏閣」があります。
寺社というのは、お寺と神社でしょ、仏閣は仏様のいるところでしょ。寺社と仏閣は言葉として重なってるんじゃないの、「馬から落馬」みたいに、と。

毎日新聞校閲センターによると、「神社やお寺をまとめていう場合、『寺社仏閣』は、かなりよく見かける表現なのですが、『寺社』はお寺と神社、『仏閣』はお寺の建物のことなので、寺社仏閣だと神社:お寺=1:3になってしまいます。やはり『神社仏閣』が適切でしょう」。
寺社仏閣ではなく、神社仏閣が表現としては正しいようです。これからそう表現することにしよう。

神社仏閣には、常時公開しているところと非公開のところがあります。寺社そのものが非公開となっていたり、本尊や敷地内の一部が非公開になっていることもあります。いつもは非公開でも、季節や行事によって特別に公開されることもあります。

「京都冬の旅」企画など、非公開文化財を特別に公開するところが京都検定にでるから要チェック!と言われたことがあります。それが本当なのか、都市伝説なのか、大阪弁でいうところの「知らんけど」。

申請したら見られる国有財産

もう一つ、特別な存在が、京都御所や京都大宮御所、京都仙洞御所、桂離宮、修学院離宮、桂離宮など皇室用財産(国有財産)。
そこで、「申請したら見られる」修学院離宮、桂離宮に行ってみることにしました。郵送やインターネット、窓口で申し込むか、当日受付枠の範囲で受け付けてもらえます。
私はインターネットで、自分の行きたい日時を申請したところ、数日以内に「許可する」と連絡がきました。
そのメール文面と、本人確認ができる運転免許証等を持参すればOK。思っていたより簡単に近づけます。

修学院離宮は1月16日(雪の日!)、桂離宮は2月21日(雨の日!)に見学。
見学客が比較的少ない季節で、しかも雪の離宮、雨に曇る離宮を見られたのは、案外良かったかも。めっちゃ寒かったけど。

まず、修学院離宮からご報告します。
「修学院」の名前は、10世紀後半に修学院という名の寺が建立されたのが始まりです。が、この寺は南北朝時代以後に廃絶し、修学院村という地名として残ります。今も修学院○○町という住所名があります。私の夫も学生時代に修学院エリアに住んでいました。

修学院離宮は、桂離宮より30数年後、1655(明暦元)年から1656(明暦2)年にかけて、後水尾上皇によって造営工事が始まり、1659(万治2)年に完成した山荘です。

比叡山の麓、東山連峰の山裾に広がる下離宮(しもりきゅう/下の茶屋)、中離宮(なかりきゅう/中の茶屋)、上離宮(かみりきゅう/上の茶屋)と3つの離宮には、それぞれ茶屋茶室が作られ、3つの離宮を結ぶ松並木の道、両側に広がる田畑で構成され、総面積54万5000m2を超える巨大な離宮は、明治期に宮内省(当時)の所管となるまで、自然に解放された山荘だったそうです。

後水尾天皇のこだわり山荘

建物は、数寄屋造の代表例の一つで、庭園は王朝時代の風流を受け継ぎ、近世初頭に公家が営んだ「回遊式庭園」。ここに行幸して散策したり、舟遊びをしたり、賓客を迎えたりしたのです。
後水尾天皇(上皇)については、勉強の上、別項でnoteしようと思いますが、「第108代天皇」「父の後陽成天皇とは確執あり」「中宮は徳川秀忠の娘の和子(まさこ・東福門院和子)」「徳川幕府とは確執あり」と、なかなか複雑な環境下やキャラの持ち主で、着工から完成まで巨大な敷地を短期間で、「御庭の一草一木に至るまで後水尾院の御製なり」と言われるほど、細部まで自分でプランニングしたという、こだわり山荘なのです。

どうしてそこまで力を入れたのか。
徳川幕府の朝廷圧迫政策を不満として隠棲の地を洛北に求めているけれど、奥さんは徳川家の将軍のお嬢さん。
多額にかかったであろう建築費用はどこから?
何か訳あり感が見学する前からぷんぷん匂います。え、私だけ?

例によって大阪・淀屋橋駅から京阪電車プレミアムカーに乗り、出町柳駅で叡山電車に乗り換え、「修学院」駅で下車。20分ほど歩くうちに、雪が強くなってきました。
周囲は、まったくもって住宅地。普通の民家の先に、ぬっと現れるのが、修学院離宮の表総門。
門前にこの日10時に予約している7、8人が寒そうに受付を待っています。

時間になると、いったん参観者休み所に集合した後、説明をしてくれるスタッフの女性に引率されて離宮内を進みます。自分勝手には見学できません。
古い建物を維持したり道や植栽を痛めないために、いわば見張り役をしているのでしょうか、列の最後尾にもスタッフの男性がそっとついてきます。
たまたまこの日の最後尾スタッフは、黒いコート、黒いメガネ、マスクで、まったく容貌がうかがえず、私は密かにMIB(メン・イン・ブラック)とあだ名をつけました。

花菱模様があちこちに散らされて

まずは、下離宮へ。修学院離宮の中で、最も西側の低いところに位置しています。
石段の上に柿葺き(こけらぶき)の板戸の御幸門(みゆきもん)から中に入ります。


花菱模様が見られる御幸門から中に

檜の扉には、花菱(はなびし)の透かし彫りが。このnoteのトップに出てくる紋様です。
「花菱紋は、後水尾上皇が好んだ仕様です。敷地内にいくつも出てきますので注目していてください」と説明が。

袖型灯籠(鰐口灯籠とも言う)、朝鮮灯籠などを配置した道を登ると、最初に出現するのが寿月観(じゅげつかん)。下離宮では唯一の建物です。
創建当時の建物ではありませんが、「寿月観」という扁額は、後水尾上皇の宸筆(しんぴつ)です。

紅殻色の土壁に、白い灯り障子と、明るい建物は、一の間、二の間、三の間から成ります。上皇や女院が御幸(みゆき)した時の御座所で、まず、ここで休息した後、その後の遊覧に移ります。
当然、後水尾上皇好みの花菱紋はあちこちに散らされています。


光格上皇の時に再建された「寿月観」

一の間は、15畳で3畳の上段を設け、1間半の床とは別に、小さな脇床があります。そこは琵琶を置く「琵琶床」。
そういえば、今NHKで放映されている大河ドラマ「光る君へ」でも、主人公の紫式部ほか平安の女子が琵琶を弾いていましたね。琵琶って、エキゾチックで、雅(みやび)です。

飾り棚の戸袋には鶴の絵、下の地袋には、岩と蘭の絵が描かれ、筆者は原在中(はらざいちゅう)。江戸時代後期の絵師で、原流の祖です。
二の間、三の間も建物の外から眺め、御幸門と相対する東門から出ると、視界が開け、畑の向こうに、比叡の霊峰や東山連峰の山並みが一望されます。

畑の向こう、と何気なく書いたけど、本当に上・中・下の各離宮の間にはデンと棚田が広がっています。後水尾上皇は、この田園を生かしながら離宮を造営したからです。
第二次世界大戦後農地改革で民有地となっていましたが、1964(昭和39)年、上・中・下の各離宮の間に8万m2に及ぶ水田畑地を国が買い上げて、修学院離宮の附属農地として維持しています。
今は元の地主や京都大学の学生が、畑で作物をつくり、持って帰ることが許可されているんですって。


離宮の中に広がる農地

元上皇の山荘だけど、ちょっと田舎の風景。貴人が好む鄙の情景。
キラキラの宮殿とは別に、隔絶された小さな宮殿内に田舎の住宅や庭園を再現したプチトリアノンを愛したマリー・アントワネットとよく似てるなぁ。
なぜか京都の修学院離宮で、大昔に読んだ「ベルサイユのばら」を思い出しながら、私は松並木の道を歩いて中離宮へ向かいます。

<続く>

#こつこつ京都学
#現地へGO
#京都検定
#修学院離宮
#後水尾上皇


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?