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身体改造 (body modifications) について、実体験と考察

以前別の記事にも書いたが、舌を二つに割き、蛇のそれのようにする「スプリットタン」というものがある。
所謂身体改造の一種である (『肉体改造』はボディビルを指すことが多いので、ここでは身体改造という表現を使わせていただく) 。

そのスプリットタンについてなのだが、「このようなことをするのは頭が悪いからだ」という書き込みを何かのサイトで見た。
私の頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。自分の舌を自ら割くという、狂気的に思える行為は、「頭が悪いから」という単細胞な理由で説明がつくのだろうか。

いろいろと思うことがあるので、身体改造について実体験を書き、さらに考察してみようと思う。



私が身体改造全般に興味を持ったのは多分15歳ぐらいの時だった。金原ひとみの有名な小説「蛇にピアス」を図書館で読んでかなり影響を受けてしまった。
しかし、それだけがきっかけとは言い切れない。小学生の頃から、全身に和彫りをしている人などを見ては何ともいえない魅力を感じていた。今思うとそれは「皮膚に一生消えない模様を刻みつける」という特性に由来していた。

15歳、中学校3年生ごろから、よくボディピアスに関するサイトを閲覧していたし、スプリットタンも「いつかやりたい」と思い始めていた。単に小説の影響だけとは言い切れないと思うが。


私が初めてピアスを開けたのは、中学校を卒業したその日だったと思う。事前にピアッサーは準備してあった。ピアッサーは一つ1000円ほどで、その頃の私にとってはだいぶ高額だったので、片方しか開けられなかった。
開けたのは確か右耳で、穴を穿つのは一瞬で済んだ。しかも痛みは全く感じなかった。

それからニードル (ピアッシング用の道具で、中が空洞になっている太い針) を購入し、耳の軟骨や耳以外の部分にも開けるようになった。
通販で買い、届いたその日に軟骨に使ってみたのだが、激しい痛みに驚愕した。
「待ってくれこんなに痛いなんて聞いていない」という叫びが脳内にこだまし、貫通させるのを体が拒否していた。しかし私は毎回、激痛に耐えつつ根性でニードルを進め、貫通させていた。

ニードル

こんなに痛いなんて聞いていない、と記述したが、ボディピアスに関するサイトには
「痛みの感じ方には個人差がある」
「全く痛くなかったという声も」
などと書かれていたため、自分は平気だと勝手に思い込んでいた。
自分は大丈夫だと勝手に希望的観測をしてしまう、所謂正常化バイアスというやつだ。


ピアスホールの拡張もやった。今、右耳たぶには直径16mmのピアスが貫通している。
ボディピアスや医療用の針の太さはG (ゲージ) という単位で表され、数字が小さいほど太くなる。円錐と円筒が合体したような形の、拡張器と呼ばれるものを押し込み、穴を広げていく。

耳たぶの場合、サイズが小さいうちはそこまで痛くない。問題は8~6Gを超えたあたりで発生する。ミリに直すと3.2~4mmだ。
とにかく痛い。特に私は拡張器を思い切り押し込み、短時間で済ませていたため、穴を穿つのとはまた異なる種類の痛みに襲われていた。
皮膚が裂けるようで、ホールの周りは赤く腫れ、長い時は数日間痛いままだった。


刺青に関しては、初めて入れたのは17歳の時だった。マイスリー (睡眠薬) の化学構造式をプロに入れてもらった。

彫りたての画像

18歳未満に施術するのは条例か何かで禁じられているのだが、「年齢は無視して彫りますよ」とDMで言われた記憶がある。
その彫り師については、初回の施術の約半年後におかしなことがあったので、今はもう関わらないようにしている。結果論で言えば、未成年に彫るような人は「やばい」のである。

閑話休題。このことに関してはリンク先の記事で書いたのだった。

現在、プロの彫り師に施術してもらったものは五つある。何度目かの施術で私は「痛みが快感である」ということに気づいた。
先日、その痛みのためだけに新しいものを入れようかと思ったほどだ。快感と書いたが、所謂痛気持ちいい、に近い。因みに最近はピアスを開ける痛みも快感になってきたのだが、刺青ほどではない。


ピアスは、耳たぶに限定すれば現代の日本ではごく普通であるし、刺青に関しても非常に珍しいとは言い難い。

しかし、スプリットタンとなると次元が違ってくる。
第一に舌という器官は、食事や発声において非常に重要な役割を果たすものであり、筋肉の一種とされている。食事中などに間違えて思い切り舌を噛んでしまうことがあるが、あれは非常に痛い。いずれにせよ舌は敏感なのだ。
それを二つに裂いてしまおうというわけだ。しかも動機はファッションである (オーラルセックスにおける快感を高めるため、という理由でなされることもあるが稀だろう) 。

スプリットタンをスタジオ等で施術する場合は、電気メスを使って分断と止血を同時に行うことが多い。

財布に負担をかけずにセルフで行うなら、
「使い捨てメスや剃刀でダイレクトに切る」
もしくは
「舌にピアスを開けて、ピアスホールから舌先にかけて糸できつく縛り、長く時間をかける」
かの二択となる。読んでいるだけでも恐ろしい気分にならないだろうか?

私は今年後者をやった。タイオフと呼ばれる方法だ。
詳しくはこちらの記事に書いた。流石に切っていくのには抵抗があった。しかしTwitterや知恵袋などを見てみると、剃刀で切って完成させたという人は意外と存在する。


ボディサスペンション、インプラント、などの改造もある。前者は、体に貫通させたフックやリングを使って、人体を天井から吊るすもの。後者は、皮膚の下にシリコンやテフロン等を埋め込むもの。また、かなり極端な例だが「眼球に刺青」をしている者は実在する。

それらは私は未経験だし、やるつもりも全くない。なので詳しくは書くことができない。私はスプリットタンまではやったが、ボディサスペンションなどに関してはその写真をあまり見たいと思わないし、今これを書いているだけでも寒気がする。



なぜ、「改造」する人々が存在するのだろうか。まず、どう贔屓目に見ても健康に良くはなさそうだし、大前提として苦痛を伴う。

身体改造は、古くから世界各地のプリミティブな文化圏で広く見られたものである。エチオピア南西部のスリ族は、唇に素焼きの皿を入れ、大きく引き延ばしていく。マオリやアイヌの刺青、琉球の「ハジチ」なども有名だ。また、「魏志倭人伝」には、倭人は刺青をしていると書かれていたようだ。

それらの多くは「通過儀礼」などと称されていた。そして、男女どちらかに限定されていることが多かった。特に女性の場合、結婚や初潮を迎えた印という理由でなされることが多数である。成熟した女性に苦痛を与え一生消えない刺青をする、という行為は、男尊女卑を表していた可能性が高い。
「一生消えない」「苦痛を伴う」という特性が活かされていたのである。


現代の先進国では、ピアス、刺青などはファッションという理由のもと行われることがほとんどだ。日本の場合、だいたい80年代までは、耳たぶにピアスを開けていると不良と思われても仕方なかったようで、刺青は完全に「ヤクザ」の記号だった。刺青=ヤクザという構図は、60年代頃の任侠映画ブームの影響もあるだろう。

しかし現在、耳たぶにピアスを一つずつ開けることで目くじらを立てる人はあまりいないし、刺青に関してもかつてほどの抵抗感はなくなってきているのではないだろうか。近年、条件付きで刺青の入った者の利用を許可している公衆浴場も多少は増えた。



身体改造は、麻酔をしない限りほとんどが痛みを伴う。
これを自傷行為と捉えるか、というのは避けて通れない問題である。精神状態が健全でもピアスを多く開けている人は決して少なくないので、一概に言えるものではない。
しかし私の場合、ピアッシングを多く行っていた時期はあまりリストカットをしていなかった。明らかにリストカットの代わりにピアスを開けていたと言え、それを自傷行為扱いしても良いのではないか。

Twitterなどで「ピアス界隈」「身体改造界隈」を覗いてみると、何らかの精神疾患を持っていて、リストカットの跡がある人が一般集団よりも明確に多いのだ。所謂病み垢の人にもピアスの愛好家が多く見られる。
不愉快に思われる方も居ると思うが、ピアス界隈と、病み垢界隈はベン図のように一部が被っているように見えてしまう。


私の意見では、身体改造に自傷的な側面は確実に存在する。しかし、それは文化圏や時代によって大きく異なってくる。

体を傷つけるとβ-エンドルフィンが放出され、これによって自傷行為に依存したり、身体改造にハマったりすると考えられている。
これは生理的な当たり前の現象なので、自傷行為や身体改造をする人=マゾヒストな訳ではない。
寧ろ、大きな刺青をした人は、どちらかと言えばサディスティックに見えるのではないだろうか (マゾヒズムは自分自身に対するサディズムだと捉えられるため、両者は完全に相反するものではない) 。


身体改造をする人々は、その「苦痛を伴う」「一生残る」「人体の形が変わる」といったミステリアスさ、神秘性に魅せられているという側面が大きくある。また、注目を浴びようとしている、つまり承認欲求を満たそうとしているという見方もできる。しかしこれは、現代だけの話である。


これを書いているあなたも身体改造をやる当事者なのに、明確な理由がわからないんですか?…と聞かれてしまう可能性もある。
完全にはわからない。私はスプリットタンまで行ったが、その理由は、蛇にピアスを読んだから、だけではない。あの小説を読んで、気分が悪くなっただけという人も多い。私の場合自傷行為と言ってしまえば単純なようだが、明らかにそれだけではない。



現代における身体改造は「趣味」の一種だと思うにしても異彩を放っている。ブラックコーヒーが好きとか、数学が好きとか、そういう好みと完全に同列にすることはできないように思う。

人間は実に面白い生き物である。



拙い文章ですが、読んでくださりありがとうございました。

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