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グローバルサウスの歴史的背景


 
「植民地主義による世界分割」
 
コルベールは、1664年、商業戦争遂行のための「軍隊」として自らフランス国内に組織した二つの貿易会社であるフランス東インド会社・フランス西インド会社に全世界を分割し、前者には東半球を、後者には西半球を支配させます。
 
これは1494年にローマ教皇がスペインとポルトガルの両国に世界を分割したこと(トルデシリャス条約)に匹敵するものです。
 
トルデシリャス条約は、1494年、スペインとポルトガル両国間で成立した支配領域分界線の取り決めを言います。
 
前年の教皇子午線を修正して西に移動させ、後にスペインがアメリカ大陸の大部分、ポルトガルがブラジルを領有する根拠となったと言われます。
 
トルデシリャスは交渉と調印が行われた都市で、スペインのバリャドリード県に所在します。当時の先進的な二国家スペインとポルトガルが、他の海外領土を二国間で分割するという植民地分界線(海外領土の分割)に関する協定でした。
 
ヨーロッパの植民地争奪戦の物凄さが分かる話ですが、これにローマ教皇の関与(教皇子午線など)を引き入れて自国に有利に植民地争奪戦を展開しようとするスペインとポルトガルの思惑が働いたなどの歴史的事実は、ローマ教皇もヨーロッパの植民地主義に大いに関わってきたことを立証するものであると見る以外にありません。
 
このようなスペインとポルトガルの植民地争奪線が世界を二国間で分け合うという盟約に対して、他のヨーロッパ諸国が黙って見ているはずはありません。
 
案の定、後発のフランス、オランダ、イギリスなどは猛反発します。特に、フランスの言い分は、聖書のアダムの時まで遡る弁舌でスペインをやり込めます。
 
「植民地争奪戦、フランスの興隆とコルベール」
 
1521年、スペインのコルテスはテノチティトランを征服してアステカ王国を滅ぼし、獲得した財宝の金細工を溶解して金塊に変えました。
 
12月、その中から国王カルロス1世の取り分として5万8千カステリャーノの金塊を携えた使者がスペインに向かいましたが、アゾレス諸島沖でフランスの海賊ジャン・フロランに捕まってしまいます。
 
フロランはその一部をフランス王フランソワ1世に献上しました。
 
はじめて目にするインディアスの富に驚嘆したフランソワ1世は、カルロス1世に次のように伝えたと言います。
 
「なにゆえに、貴侯とポルトガル王閣下のあいだで世界が分割され(トルデシリャス条約を指す)、フランス王にはなんの関わりもないというのであろうか。
 
われらが父アダムの遺書のなかにかの地の相続者とも領主ともなるものは貴侯らに限るとの定めがあり、それゆえに貴侯らで世界を二分し、余に一片の土地も与えぬというのなら、その遺書とやらを見せてほしい。
 
それができぬなら、余が海上で何を奪い、何を手に入れようと、とやかく言われる筋合いはない。」
 
という聖書のアダムの時代に遡らせての反論であり、コルベールに先立つ一世紀前のフランス王フランソワ1世の気魄に満ちた論駁です。
 
コルベールの植民地体制を中心とする重商主義が、植民地争奪戦遂行のための「軍隊」を必要としたのは、先行国のスペイン、ポルトガルの二か国に比肩する国家的条件として不可欠でした。
 
「コルベールとルイ14世時代の終焉」
 
コルベールの植民地体制は、彼の思想から言えば、以下の三つの基本的要件を満たすものでした。
 
(1)植民地はフランスの貿易網の不可欠な核になるべきである。そのためには本国のマニュファクチュア製品、西アフリカの奴隷、西インド諸島の砂糖、綿花、タバコなどを結ぶ市場からオランダ商船を排除しなければならない。
 
(2)植民地は本国が独占的な領有権の行使をできる場でなければならない。そのためにはオランダ商船をフランス植民地から排除する「排他主義」をとる。
 
(3)植民地の利害は本国のそれに従属させられなければならない。つまり、植民地は本国にとっての市場、原料供給にとどまるべきであり、独自に産業を興して本国の産業を圧迫することがあってはならない。
 
このような明確な要件を考慮して、植民地体制を整えました。コルベールの時代におけるフランスはルイ14世の黄金時代を築いた大方の貢献をコルベールに帰することができると言っても過言ではありません。
 
しかし、コルベール亡き後、ヴェルサイユ宮殿建造、海外戦争で乱費に走るルイ14世を制する者は誰もいませんでした。財政破綻に陥り、フランスの時代は終わって、オランダとイギリスの時代へと移っていきます。
 
「保護貿易主義から自由貿易主義へ」
 
イギリスがアダム・スミス(1723-1790)の『国富論』で展開した慧眼によって、新時代を拓く18世紀を迎えると、重商主義の保護貿易主義から資本主義の自由貿易主義への大転換を主導する国家として存在感を示すようになりました。
 
そして、19世紀には、名実共の「パックス・ブリタニカ」(英国による平和)」を築き上げ、世界に冠たる国家の威光を輝かせることとなったのです。
 
とは言え、重商主義時代の名残を引きずりながら、資本主義と自由貿易主義を掲げて、歴史は進行します。
 
特に、今日、「グローバルサウス」と言われる南半球の発展途上国が、経済発展で取り残されてきた事実と、欧州各国の植民地政策(重商主義)が表裏一体であったことから、重商主義政策をどう見るかが、倫理上の論議の対象に上ることになります。
 
重商主義の反省といったものが、グローバルサウスを考えるときに、必然的に要求されるのです。歴史の清算、過去の清算は重たい課題となります。
 
実は、詳細に歴史を見ると、重商主義は20世紀の第二次世界大戦の勃発前まで生き残っていました。
 
輸出超過によって国家の黒字を溜め込むという考えは、重商主義そのものですが、1920年代まで先進諸国は帝国主義という形で戦っていたのです。
 
「自分のところは買わない方がよい。外に出した方がよい。」という関税同盟で関税の壁を作っていました。お互いにグループごとの国で関税を高め合い、争ううちに第二次世界大戦突入の遠因まで作りました。
 
アメリカは、「そういうことではない。世界は得意なところに特化するべきだ。得意なものをどんどん伸ばして、不得意なものは外国から買えばいいのだ」と言って、重商主義の考えを否定しました。
 
これがアメリカのアメリカたるゆえんであり、自由貿易主義の旗頭として、世界の前に立っていました。しかし、その後の現代史は、共産主義の脅威という要因を抱えて迷走し、混乱の中を進むことになります。

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