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欲求階層説から見た経営論

「成功哲学とは一線を画する欲求段階理論」

「人間の心理(欲望)と経済活動」という観点に立てば、一定の欲望に基づく心理状態がどういうふうに経済活動に関わっているのかという問題意識が生まれます。
 
アメリカの心理学者、アブラハム・マズロー(1908-1970)は、フロイトの精神分析学が精神の病理学的な解明と治療というネガティブな側面に向き合っていたのとは対照的に、人間の正常で健康な側面を重視し、人間は、食欲などの単純な欲求を持つだけではなく、成長に向かおうとする成長動機を持っていると考えた結果、「人間性心理学」の提唱者となりました。
 
ポジティブな心理学を目指したわけです。そこから有名な彼の「欲求階層説」が生まれました。
 
マズローはブルックリン大学の教授であり、ブランダイス大学の心理学科長、さらにアメリカ心理学会会長などを務め、人間主義的な心理学アプローチによって権威的存在となります。
 
一般的によく言われる「自己実現」という言葉は、しばしば「成功哲学」と結びつけられて使用されますが、「自己実現」の概念をマズローは欲求段階理論の頂点において述べており、単なる欲望の実現というよりも、もっと崇高な意味で語っています。
 
彼の著作、『完全なる経営』(原題「Maslow On Management」)によれば、自己実現は以下のような内容になります。
 
「仕事を通じての自己実現は、自己を追求し、その充足を果たすことであると同時に、真の自我とも言うべき無我に達することでもある。
 
自己実現は、利己-利他の二項対立を解消するとともに、内部-外部という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。内的世界と外的世界は融合し、一つになる。同じことは、主観―客観の二分法についても当てはまる。」
 
「経済活動がたどり着く終点としての自己実現」
 
このような「自己実現」の意味を理解せよと言われるならば、これはもはや単なる成功哲学(仕事を通じて目指す成功者への道)の範疇を超えて、形而上学の核心とも言える高等宗教の境地に達せよと訓示されているような気分になります。マズローは、憚ることなく、「真の自我とも言うべき無我に達する」のが自己実現の姿であると言明します。
 
マズローの欲求段階理論は、三角形の一番下に置かれる欲求が「生理の欲求」、その上の二番目に来るのが「安全の欲求」、三番目が「社会的所属欲求」、四番目が「承認欲求」、5番目がピラミッドの頂点であり、その欲求が「自己実現の欲求」となります。
 
生命維持のため、食べるために働くというのは「生理の欲求」、安定した仕事、災害のない暮らし、家のある暮らしなどを求めるのは「安全の欲求」、自分が社会的に必要とされ、役割があり、認められていることを願うのは「社会的所属欲求」、社会・集団から価値ある存在と認められ尊敬を得ることを求める欲求は「承認欲求」、自己の可能性や能力を完全に発揮し、自分が成り得るものになっている(真の自我への到達)のが「自己実現」となります。
 
四番目までは「欠乏欲求」(欠乏しているものを満たす欲求)、「自己実現」から、さらに「自己超越」に達すると、それは「存在欲求」(あるべき本然の自己が存在する姿)となります。
 
「物質的価値から精神的価値への昇華」
 
マズローの欲求の5段階に応じた経済活動の動機が、それぞれの段階で異なるものになっていますが、よく見ると、第一段階の人間の生理的本能的欲求は生命維持の物質的欲求であり、そういう欲求を満たす経済活動の動機が、働く意味を形成します。
 
第二段階の安全の欲求は、安定した収入のある仕事、災害や不自由のない暮らし、家のある生活などを求めているので、やはり物質的動機が中心です。すなわち、第一段階と第二段階は「物質的欲求」が中心になっていると言えます。
 
ほとんどの人が、この第一、第二の段階までを動機とし、人生の大半をかけて仕事をする姿が多く見られます。
 
第三段階(社会的所属欲求)、第四段階(承認欲求)、第五段階(自己実現欲求)になると、物資的欲求の実現もあるでしょうが、それ以上に精神的な価値を求める欲求が強くなっていきます。
 
下層に行けば、物質的価値に偏重する傾向を有し、上層に行けば、精神的価値を重視する傾向が増し加わっていきます。仕事の価値内容が物質重視から精神重視へ昇華していくというわけですから、これが、マズローの言う「真の自我」の実現という意味を持った「自己実現の欲求」ということになります。
 
「マズローが示した心理学への提案」
 
こうしてみると、マズローは欲求の段階に応じたモチベーション論を基礎において、人間の経済活動を洞察するというユニークな経営論を展開していると言えます。
 
ピラミッドの頂点に「自己実現」を置くマズローの経営論を、彼は自身の造語で、「ユーサイキアン・マネジメント」([Eupsychian Management]、自己実現の経営)と呼んでいます。
 
マズローの経営理論を理解する鍵は、マズローの心理学に対する考え方を理解する必要があります。
 
マズローの論文「心理学の哲学」の中で、彼は世界が救われるか否かは心理学にかかっているという強烈な自負を示しています。
 
すなわち、「科学は医学であれ、経済学であれ、何であれ道具であるが、道具は全て、良い者にかかれば良い道具となり、悪い者にかかれば悪い道具となる。
 
そうであるとすれば、そもそも、よい人間を生み出すこと、人間性(human nature)の向上が全ての根本である。そうした人間性の理解、人間の心理的健康・不健康の理解はまさに、心理学によってこそ可能である。」と言います。
 
このように述べていますから、心理学に対して、彼は明確な提案を述べているのです。
 
その心理学への提案は、
 
①  人間性の深淵を研究すべきであり、価値・哲学・無意識など、目に見えないものにも向かうべきである、
②  そのためには手段中心でなく問題中心で取り組むべきであり、心理学者以外のあらゆる人の声に耳を傾けるべきである、
③  心理的健康のために何が必要かわかったら、健康を育む文化(the health- fostering culture)の創造という課題に向かうべきである。
 
これが、1956年、マズローの基本的立場が鮮明に語られたときの内容であったわけですから、マズロー経営論が非常に内面的、抽象的価値観の領域、すなわち、人間の心理的健康を育む文化の創造という目的を持っていることは明らかです。
 
人間の心理的健康を実現する経営理論を目指したのが、まさにアブラハム・マズローでした。
 

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