政治的芸術というトレンド 【ドイツ紀行 Part 4】

 ドイツ紀行もついに Part 4 まで来たわけだが、おそらくこれが今回の紀行シリーズの最後になるだろう。
 ドイツには2日間しかいなかったが、モンハイムトリエンナーレの他にもK20とK21という2つの美術館を訪れることができた。ドイツに入る前は約9ヶ月間ロンドンに住んでいたのでもちろんTate Modernや戦争博物館などを訪れたし、帰国してからすぐに森美術館の展示を見に行ったので、比較的短いスパンで3カ国の展示を見たことになる。この最後の旅行記では、これら3カ国で体験した展覧会を簡単に比較しながら、表題にある通り、政治と芸術について少しだけ書いておきたい。

ロンドンにて

 帝国戦争博物館(Imperial War Museum)はイギリス国内に5つあり、僕はロンドン市内のものに一度だけ訪れた。2度にわたる世界大戦の記録や保存物が一挙に見れる場所で、当時の軍服や戦車、実際の弾丸や様々な武器を見ることができる。個人的に印象に残っているのは、化学兵器の影響で縮んだ革の手袋だ。成人男性サイズだったはずの手袋が、新生児サイズまで縮んでいた。戦争の痕跡というものはわかりにくいだけで世界中に残っている。異様に縮んだ皮の手袋は、化学兵器の独特な爪痕––ときに土地そのものをダメにしてしまうような暴力性––を雄弁に語っていた。
 僕が訪れたとき、いわゆる特別展として2つの展覧会が催されていた。一つはウクライナ前線の写真展で、もう一つはゲームと戦争の歴史展のようなものだった。詳細は省くが、約100年前の戦争の記録と現在進行形の戦争の記録、そして何百あるいは何千年も前から存在するチェスのようなボードゲームから現代のビデオゲームまでを貫く戦争という題材、それぞれの展示にはそれぞれの良さがもちろんあるのだが、最も優れていると思ったのはこれらを並置するという点だ。ゲームという身近な存在、100年前の戦争の記録、ほんの少し前に撮られたウクライナの写真、これらを同時に体験することによってある種の混乱––古い出来事と現在が相互に交わってしまうような混乱––が生じ、単体の作品や写真などから得られる以上のなにかを得るきっかけとして非常に優れていたと思う。ウクライナの写真展を含めて過度に残酷な描写はなく、公共性には充分配慮されているので、若い人々にこそ見てほしい展示だったと僕は思った。

 ロンドンでの展示はこのようなキュビズム的同時性(多角的な視点)に基づいた脱コロニアル/マスキュリン的なもので充実しているように思う。それはときにひとつの展覧会の中で写真やテキスト、映像等が並置されることで実現され、ときには上に見た例のように複数の展覧会が並置されることによって実現されている。より大げさに言ってしまえばそれは都市レベルで実現されているのかもしれない。ロンドンという都市においては、政治的なテーマの作品が非常に多く取り上げられており、純粋に芸術そのものを探求するような作品(例えばジャクソンポロックみたいなものをイメージして構わないだろう)はマイノリティと言っても過言ではない。しかし芸術は多くの場合抽象的にメッセージを運ぶため、例えば新聞記事や論文などを科学的/客観的と考える一般的な知と比較すると合理性に乏しく見えるだろう。この超越的客観性––ハラウェイ的な言葉を使うのであればgod-trick vision––への抵抗として発展したのがキュビズム的同時性であり、客観性に乏しい芸術作品が政治的な意味の創出に参加する方法なのだろう。近代的科学知は問題を切り分けて(純化して)考えるが、キュビズム的同時性はそうしない。つまり、複雑な世界を純化して捉えるのではなく複雑なものを複雑なまま考えようとした結果現れざるを得ない多層性が、キュビズム的な同時性である。

 若い頃いわゆる現代音楽に傾倒していた僕は、大学を卒業する頃には「芸術家は如何にして社会に参加するべきか」みたいなことを考えていたし、芸術は才能の問題だとナイーヴに捉える人たち(なんて幸せな人たちなんだろう!)のことが好きではないので、上に見たようなロンドンでの芸術に纏わる諸体験は心地のよいものだった。この「芸術は科学と異なる方法で政治的/倫理的な意味の創出に関わる」みたいな文脈は俗に言う芸術界ではある種のトレンドみたいなものになっていると思うが、近年はそれがやや盲目的なのかもしれないと、今回のドイツ旅行で少しだけ思ったのだ。

ドイツにて

 モンハイムトリエンナーレについては以前の投稿で書いたのでそちらを参照してもらうとして、今回はK21とK20について書いておきたい。いずれも名前から察することができるように、K21は主に21世紀(といっても実際には20世紀末も含まれるが)の作品を展示する美術館で、K20は20世紀の作品を集めている美術館だ。K21はその立地があまりにもかっこよかったので写真を撮っておいた。

K21

 今回僕が訪れたときK21ではJenny Holzerの作品展が開催されていた。既に芸術界における政治的/倫理的な作品がある種のトレンドを形成してきたと述べたが、この特別展も例に漏れずジェンダーや戦争などをテーマにした政治色の強い作品が並んでいた。天井高が3m以上あろう展示室で床と天井以外の壁が短い文章で埋め尽くされていたり、大理石でできたベンチのような石に文字が彫られていたり、電光掲示板がシリアスなメッセージをカジュアルに反復したり、白い室内に本物の人骨が山積みになったりしていた。僕はこれまでに似たような作品や同様のテーマを何度も目にしてきているので、他の作品との比較がなくてもJenny Holzerの作品群が例のキュビズム的同時性の一端を担っていると想像できる(あるいは実際に他の体験や記憶との同時性を持つ)のだが、慣れていない人にとってはどう見えるのだろうか。「よくわからない」という感想で溢れても不思議ではないだろう。所詮あらゆる体験はこの身体にどうしようもなく結びついており、この身体に結びついた諸経験をゼロにして保証される超越性などない。つまり、鑑賞者それぞれの経験に関わらず特定の展覧会や作品が運ぶ絶対的なメッセージなどというものはない(期待するべきではない)。ゆえにキュビズム的同時性というものは、もちろん意図的にそれを持つように工夫されることはあるが、我々の記憶が我々の意思と関係なくクリエイティブに互いを想起してしまう以上、自然と現れるものなのだろう。

 ベンヤミンがアウラという概念を使ったことは有名だと思うが、彼自身がアウラという概念をアップデートしていたことは専門的に学んだ人でなければ知らないだろう。機会があればどこかでちゃんと書こうと思うが、すごく簡単に言うと彼はアウラを「物体にまとわりついた、無意識的な記憶を想起させる、知覚の戯れ」であると考えていたようだ。プルーストの「失われた時を求めて」は主人公がマドレーヌを食べたんだったか紅茶を飲んだんだったか忘れたがとにかくふと幼少期の記憶を思い出すみたいなシーンから始まる。マドレーヌの食感か味、あるいは紅茶の香りが、忘れていたことをふと思い出させたのだ。これがベンヤミンが少なくとも複製技術時代の芸術作品では明確にしていなかったが後に "On Some Motifs in Baudelaire" で定義するアウラである。
 キュビズム的同時性が個人の身体に宿るのであれば、それはアウラ的知覚の戯れの連なりでもある。だとすれば、ロンドンという都市で実現されていると僕が考えるキュビズム的同時性は実はある種のパラノイアかもしれない。歴史を理解した上で現代において芸術が主に担うべき役割とは自身の不完全さを引き受けながら政治に参加することである、みたいな主義主張そのものが、性差別や戦争、気候変動といった諸問題に対して従来の科学が無力であることが20世紀半ばくらいから露呈してきたことへの反動として強調されているだけかもしれない。このトレンドは矛盾を抱えやすい。芸術作品群が従来の科学では言及できなかったメッセージを炙り出そうとして、そのことによって現代における芸術らしさ(あるいはあるべき姿)のようなものを作り出す。アカデミックに奨励されるその芸術らしさは芸術家をより政治的な作家へと導き、ある種のフィードバック構造を作ってしまう。本来であればこのトレンドは「芸術らしさ」のようなものに対して否定的に(あるいはとても寛容に)働くべきだが、一度フィードバックが始まってしまえば「多角的であるべし」という信条が「芸術とはかくあるべし」という理想像を補強し続ける。このフィードバック構造は虚構のハイブリッドを捏造するだけだ。ラバが「ウマとロバのハイブリッド」でありながら、それは結局「ウマでもロバでもない」という新たな純化を推し進めるように。どこかの映画で見た気がするのだが、人と動物のハイブリッドは両者を友として結びつけるのではなく、両者から迫害を受けるのだ。

 冗長になってしまったが、要はK21での展示は典型的な20世紀末以降のヨーロッパの美術展、という感じだったのだ。K21を見たあとに僕はお昼に冷やし中華(これまた他の記事を参照してほしいのだがドイツでの話である)を食べてK20へ向かった。K20ではピカソやウォーホルといった名だたる芸術家の原画が展示されており、いわば現代のトレンドとは異なる趣の作品群を見ながら、僕は先のようなことを考えていた。先のようなこととはつまり芸術におけるトレンドが容易に孕み得る矛盾だ。キュビズム的同時性だとかベンヤミンのアウラだとか言ったが、このトレンドにおける矛盾に思いを巡らせていたのはK20でのシンプルな視覚的体験が発端だった。

 僕がK20を訪れたときの特別展ではEtel Adnanというレバノンのアーティストの作品が展示されていた。「レバノン出身の女性アーティスト」というラベルによって我々はどうしようもなく政治的な側面に注目せざるをえないだろうし、事実ほとんどのキャプションがそういうものを強調した解説になっていたと思う。しかし彼女の抽象画にはそういった背景とは関係なく視覚体験としての魅力があった。彼女の優れた色彩感と美術館スタッフ(?)による巧みなライティングによって、いくつかの抽象画は内側から発光しているかのように見えた。飽くまで個人的な感想だが、絵画の背景にある政治的コンテクストや彼女が置かれた状況よりも絵画自体の視覚的効果の方が興味深く見えた。純粋な視覚的体験とでも呼ばれるようなものがコンテクストやコンセプトよりも力強く現れていると感じたことによって、原始的な芸術体験のようなものの強度みたいなものを再確認した。もちろん彼女の抽象画に政治的含意を読み取ることも決して過激な思想ではないと思うが、それは必ずしも抽象画としての「純粋な抽象性」のようなものを軽んじることを意味しないはずだ。
 ロンドンでは先に述べたトレンドが個人的に強く思われ、その分K20で見られるような知覚的強度の高い作品群は注目されにくいような気がしている。ゆえに政治的なメッセージのない作品は稚拙だとされるきらいがあり、そういうものは資本の代替/象徴としての家具みたいなものとして蔑まれているのかもしれない。個人的にはよくできた絵画とかよりもコンセプチュアルアートとかを好む性格なので先にも述べたとおりロンドンにおける芸術体験は心地よいものだった。しかしロンドンで学んだ審美眼を携えてK20とK21を見たことによって、ロンドンがやや過激であることとドイツの優れたバランス感覚を垣間見たような気がする(ここで言う審美眼とは、伝統的な鑑識眼という意味での 'good-eye' ではなく、そこに自身が知らないことがあるという柔軟な 'curious-eye' のことだ。重要な考え方だと思うので後日機会があればどこかで書こう)。そしてこのような政治と芸術の関わりを帰国してすぐに再確認することになったのだ。

東京にて

 帰国してすぐにオーモリヤサイスクナメアブラチーズカラメを貪り豚としての尊厳を取り戻した後、僕は六本木へ向かった。日本のラーメンはやめられないブヒ。

オーモリヤサイスクナメアブラチーズカラメ。秋葉原MAZERUさんにて。

 森美術館では開館20周年記念の「ワールド・クラスルーム」という展示が開催されていた。正直なところタイトルがかっこよくないし、展示スペースが国語算数理科社会で分かれているという事前情報も好みではなかったので全く興味が持てなかったのだが、ちゃんと調べてみると先に述べた美術におけるトレンドやキュビズム的同時性みたいなものを考えるのによい展示だと思ったので、重い胃袋を宥めながら森美術館へと向かった。どのような展示なのかという点については調べればいろいろ出てくると思うので、ここでは僕が気になったことについてだけ書くことにしよう。
 一つ目は、展示ボリュームの差である。先に述べたように本展は国語算数理科社会(それと哲学と体育と音楽だったかな?)といった小中学校生が慣れ親しんでいる教科によっていくつかのゾーンに分かれていた。社会コーナーでは人や社会がテーマの作品、数学コーナーでは数を使った作品、理科コーナーではなんか理科っぽい感じの作品が紹介される、という具合だ。正確に作品数を数えたりしたわけではないが、明らかに社会コーナーが充実していた。体感的には展覧会全体の40%くらいを占めていたように思う(多分言い過ぎである)。やはり美術界全体で20世紀後半くらいから明らかに政治的な作品群に注目するというトレンドがあるのだろう。少なくとも一部の地域(俗に言う先進国)では。
 次に、一つ目と関連するのだが、採用されたアーティストの分布についても書いておきたい。飽くまで体感的なメモであることを了承していただきたい(そもそもnoteは個人的なメモみたいな感じで使っているので、正確な情報については僕は後でカタログを参照する)。まず日本人が定期的に出てくることはいいことだろう。美術だから西洋白人主義だ、みたいなやり方に陥らないのは重要だし、日本の展示なら日本の作家がたくさんいていいと思う。次に僕は中東あるいは東南アジアが注目されているように思った。これは決して悪いことではないのだが、社会コーナーの作品にはベトナムやタイ、中国といった国が注目されすぎのような気がする。いや、彼らが注目されすぎというよりは、それと比較してなぜこんなにもアフリカの例が紹介されないのだろうか、という点が気になる。もちろんアジアの島国だからアジアを中心とした芸術界隈に詳しいというのも全く不思議ではないのだが、ベトナムや中国に纏わる芸術作品はヨーロッパでも随分前からかなり注目されているので、なんだかヨーロッパで注目されてきた傾向の再現のように見えてしまう。脱コロニアルみたいな考え方を様々な場面で強調しておきながら、依然として見えないコロニアリズムで支配されているようにも思えてしまう。要は、所詮ヨーロッパで評価されたものを日本でも紹介している、みたいな展示に見えてしまう。依然として「展覧会とは何か」という大きなコンセプトの背後にヨーロッパ至上主義的な、白人男性至上主義的な考え方のクセがあるのかもしれない。ちなみに諸々の難しさを承知した上で書いているので、別にアフリカに対する差別だ!みたいなことはこれっぽっちも考えていない。
 三つ目は、展示会のクオリティが比較的高いという点だ。ライティングについてはやや不満もあるが、キャプションの工夫や絵画/写真等が綺麗に展示されていたり配線が見えにくかったり、そういう細かいところについてはきちんとなされていてさすが日本だなという気持ちになった。意外とそういうところが雑な展示も海外では多かったように思うので、細かい気配りが際立っていたように思う。美術館はある種の宗教性を帯びた場所だと思うので、そういう細かいところをちゃんとすることによって非日常感を出せるかどうかは依然として大事なことだと思う。もちろんそういうのが逆効果になる展示も存在するのだろうけれど。
 総合的にはおもしろい展示だったと思うし、とても勉強になった。もっと具体的なテーマを持った展覧会と比較すれば強度はないかもしれないが、森美術館開館20周年記念展であることを考慮すれば、どちらかというと博覧会のようなものに近い性格であることも当然の結果だろう。会期は9月24日までらしいのでお時間のある方はぜひ。

最後に

計画もなく適当に筆を進めてしまったが、3カ国での体験をさらりと書いてみた。一応これにてドイツ紀行シリーズは終わりにしようと思う。依然としてキュビズム的同時性やアウラと記憶、good-eyeとcurious-eyeなどきちんと書いておきたいことがたくさんあるので、今後も適当に時間があるときに書いていこうと思う。


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