小山台幼稚園

長女の事を書くにあたり、今はもう無き、この幼稚園に巡り合えたことは私にとって宝そのものと言って過言ではないと言い切れる。幼稚園に入る年齢になってすごく悩んだ。一応公立の幼稚園に応募はしたが、その頃は倍率が高くて抽選で落ちた。それよりも市は障碍者枠で保育園に入れる事を進めてきた。その時は障害者という見方が嫌で、いわゆる健常児と同じように育てたかった。モンテッソリーやシュタイナーなど彼女に合うところがないか必死で探した。下に2歳の息子もいて3人目を身ごもっていたので通える範囲も限られていた。希望する所は遠すぎて諦めるしかなかったが、歩いて行けるところに一般的ではあるが総勢20人程の小さな私立の幼稚園をみつけ事情を話し受け入れて貰えることになった。

今振り返ると小学校も普通学級にこだわった事でかえって彼女につらい経験をさせてしまったのでどれが一番良い選択だったのか判断できかねるが幼稚園だけはここで本当に良かった。ここでおばあちゃん先生に出会ったことがそれからの私の子育ての基本となったからだ。その意味において長女の存在はすごく大きい。彼女がいたから必死で幼稚園探しをし、結果私の子育てにおける大切な事を教えてもらえたのだから。

長女と一緒に2歳の息子をベビーカーに載せて毎日歩いて通った。3人目を身ごもっているので、送り迎えが辛いだろうということもあり特別にその幼稚園にずっと一緒に滞在させてもらい2歳の息子もそこで遊ばせてもらった。とても自由な所で、学芸会では2歳の息子も舞台に立って一緒にお遊戯をさせてもらったくらいだ。保育園ではないので入園はしていない。基本私が息子の相手をするのだが、何かにつけ仲間に入れてもらっていた。

あるとき私がおばあちゃん先生と話しをしていたら、自分の乗っていた空のベビーカーを押して遊んでいた息子。偶然、おばあちゃん先生にぶつかってしまった。私は謝り、同時に息子にも謝らせようとした。そしたらおばあちゃん先生は、「あやまるのはあなただけで良い。子供に謝らせるな。」「でもそういう行為は注意して謝らせることが躾だと思う。」そしたらおばあちゃん先生は、「子供が興味をもって集中して学習している最中だよ。親だけ謝ればいい。」と言われ私は子どもの事よりも躾をしていると思われたい自分しか見ていなかったのかもしれないと感じ、子供の目線で物事を見る大切さを教えてもらった気がした。毎日一緒に通えたおかげで直接おばあちゃん先生の子供をみる姿勢を学べた。感謝しかない。

この幼稚園のできごとはほかにもいろいろあり別の形でも書きたいくらいだ。数え年100才で亡くなったおばあちゃん先生、今でも私の心の支えになっている。山梨に引っ越してからも子どもたちを連れてベッドで寝た切りのおばあちゃん先生に会いに行った時、そばにあった木彫りの観音様を指して、「私はああなりたいの。」と言っておられた姿は観音様そのものだった。

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