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生田斗真&趣里らが生み出す巧まざるファルス。舞台『ほんとうのハウンド警部』

舞台『ほんとうのハウンド警部』が、3月5日(金)よりBunkamuraシアターコクーンにて上演中だ。脚本は英国演劇界の至宝ことトム・ストッパード。一家言ある劇評家たちが眺めている舞台(劇中劇)を観客が観劇する……いわゆる演劇についての演劇(メタシアター)だけれど、そんな複雑な手法よりも深い思索が心を撃ち抜いてくれた。演出はもはや日本の演劇界になくてはならない存在の小川絵梨子。ふたりのタッグがどんな劇空間を生み出すか楽しみだ。配信ではあるけれど、そんな舞台を観ることができた。

文 / 竹下力

クソみたいな世界とはおさらばだ!

演劇を観る際に重要なのは、その舞台が、今この瞬間に、自分自身に何を語りかけてくるか。その作品が、どの時代に、どんな環境で、どのように作られたのかは、さして重要でない。「今、ここ」にしかない“サムシング”がしっかりと作品に刻まれているのなら、ただ、起こっていることに身を任せていればいい。言葉にならない言葉を見つけることができるし、行為にならない行為に価値を見出せる……踊り続けるままに踊り続けられる、そんな傑作。

それだけでなく、舞台の冒頭で、いつも二番手に甘んじることを受け入れられない劇評家のムーン 役の眼光鋭い生田斗真の吐き捨てる言葉が、トム・ストッパードの当時の英国演劇に対する揶揄になっているとしたら、そんな時代にタイムスリップしてみることはスイートな経験ではないだろうか。

初演は1968年。時代は“世界革命”の風が舞い上がっていた。アジテーションの声がデモンストレーションを訴える。「クソみたいな世界とはおさらばだ!」。インターナショナルが歌われる。クソみたいな世界は変わるかもしれない。そんな胸踊る興奮を味わえるかもしれない。

でも、トム・ストッパードは言う。「革命? だからって?」。なんのことはない、いやはや、腹をくぼませて笑えばいい。本人がどうあれ、世界は、何かの変革を、その予兆を求めていた。果たして彼の作劇にどれだけ影響を及ぼしたかは別として、風に舞い上げられていたと想像はできる。それでも、答えは観客の判断に任せられている。舞台がすべてを語っている。

時代性を逸脱したファルス

本作のメタシアターという構造は、配信で観ていると、かえって本作の特徴である「虚実皮膜」を際立たせる。パソコンの画面から観える現実と虚構が強固でフラットにないまぜになって、演劇でしか味わえないダイナミズムが溢れている。「どうしようもない嘘くさい現実」が、世界においてどんな位相を占めているのかを知る上で格好の作品だと感じる。劇場で観ればいいわけでも、配信で観ればいいわけでもなく、観るという行為そのものが、演劇の面白さを際立たせる作品という証左なのだろう。

物語は、劇評家のムーン(生田斗真)が、劇場の客席を模したセットから実際に観客席(あるいは舞台の舞台)を眺めているシーンから始まる。パンフレットを読みながら、英国の劇評家の仕組みで序列を作られ、劇評家として二番手の立場であることに腹を立て愚痴を言っている。そこにチョコレートを手にしたバードブード(吉原光夫)がやってくる。世間話も与太話もすれば、自分の地位を脱却しようとしたり、懇意にしている女優と仲良くしたいなんてスノッブな話が展開される。

ふたりが目にするのは推理劇らしい。ミステリーの登場人物(趣里、池谷のぶえ、鈴木浩介、峯村リエ、山崎 一、手塚祐介)らの三角関係と殺意と疑念と殺人と。一方で、物語がクライマックスになるにつれ、幕間が訪れるたびに、適度な批評でお茶を濁そうとするムーンとバードブートにとって、舞台などどうでもよくなってしまう。それでも、とある事件が、劇評家たちも巻き込んだ壮大なミステリーになる……。

トム・ストッパードのメタファーを含んだ台詞のリフレインと換喩を多用した作劇は、小説と詩(散文と韻文)を行ったり来たりするようで、自由に作品を壊していく。静かでありながら徹底的に。劇中劇という手法が演劇に対する愛と批評があるからだけれど、アメリカの社会学者、ウォーラーステインが言ったように、パリの五月革命、日本の全共闘運動にせよ、あの時代、あの現実に、何かを壊すこと、あるいは“異議申し立て”をすることに主眼があるのなら、壊れきっていくことにこそ意味があったのだと感じさせてくれる。

劇中劇のやたらに誇張された芝居と、随所に展開されるご都合主義的な物語。そこに異議が入る手法は、メタシアター的な手法以上に時代性を感じさせるだろう。時代は歪みをあらわにし、差別と偏見と正義と悪と判断さえ超越した判断を求めていた。荒唐無稽というより、どこかシュールな空気とそれを感じた人々の戸惑いを描くことに趣があったかもしれない。

近年のフランスの「黄色いベスト運動」もブラック・ライヴズ・マター(BLM)も根底で繋がっている。誰もが戸惑うばかりなのだ。差別の撤廃への運動はさらに別の差別を生み出すその無限のループの予兆を感じてしまうから。すでに既視感を持って現れているのであれば、本作は現実に亀裂を入れさせる稀有な舞台でもある。世界が我々を変革するのではなく、我々が世界を変革してしまうのだと訴えている。良いか悪いかは別として……。

じゃあ、何もかもなくなっちまえばいい。「それが革命?」。そんなトム・ストッパードの声ならざる笑い声が聞こえる。

現実へのアンチテーゼ

今作が、過去のテーマの焼き直しではなく、現代への視座を持ちうるとしたら、壊れきった現実において、何が有効な手段かを提示しないまま、それがミステリーのパロディの“定型”として演じられた点であるかもしれない。

世界はパロディなのだ。腹をくぼませて笑うしかないってほんとに。もはやパロディもパロディの意味性さえ消費社会の波に飲まれて喪失している。だとしたら、この現実においてパロディの意味はあるのか? 誰も笑えない時代だと諦めればいいのか。そんな問いかけがある。この作品はパロディを更新するパロディである点で巧まざるファルスとして機能していた。

それを実現できたのは小川絵梨子の力が大きいだろう。彼女は、2021年にしか表現できない、観客が感じるどうしようもない、現実へのもどかしさ、壊れたものが壊れていく諦念さえ感じさせる演出を見せた。そして、顔をこわばらせて笑うよりもヘラヘラと笑っていられる脱力にこそ、現代をサバイブする力を持ちうるのではと感じさせてくれる。力を抜け。世間を降りよ。さすれば生きることができる。昨今の様々な運動に対する批評でもあるのだろう。そんなラディカルなメッセージが込められている。

常に視点を観客席に向けることで問いかける時代の真実。生田斗真を含めすべてのキャストがそれを感じさせてくれる。瞳に映る世界が真実なのか? それにしてもうまい。手練れだ。舌を巻く。

生田斗真の芝居のひらめきとかがやき

バードブート 役の吉原光夫は、目にかけていた女優に気の迷いでちょっかいを出した中年男性の悲しい性を感じさせる芝居が板についていた。これは平身低頭して「そうでございます」と笑うしかない説得力がある。それが性差を超えて笑いになる点で、吉原の芝居に現代を感じさせる。

マグナム/ハウンド警部 役の山崎 一は、理論武装をしているのに、ご都合主義的に現実を解釈しようとする、現代人を揶揄した静かで沸る芝居が圧巻だ。

サイモン 役の鈴木浩介は、意味をなしている台詞を発しているし、行為もしているはずなのに、それは絶対的に何も意味していないという、“とりあえずな芝居”が本当に上手だった。そのノンシャランな性格が当時にせよ、現代にせよ、新しい。この舞台は、やめたい時にやめればいいのだ。要は起承転結さえなくてもお芝居は成立するのだと宣言しているようだ。

シンシア 役の峯村リエとコメディ・リリーフ的なドラッジ夫人 役の池谷のぶえの誇張された芝居は、凄まじくて笑うしかない。ふたりがいればなんでもできそうな気がする。間をはずしてスカしを入れる峯村と、能面みたいな表情で、巨大なドラマを語り尽くそうとする池谷のギャップは可笑しい。ふたりの芝居は舞台にグルーヴを生み出していた。

フェリシティ 役の趣里は、身体性が豊かで、表情の変化を含めて、美しいとしか言いようがない。なのに、どこかおかしく、どこか壊れている芝居が見どころ。意味深な台詞を誇張しすぎたために、言葉の意味性が剥奪され、かえって彼女の肉体性が際立っていく。彼女から目が離せなくなる。そんな魔力がある。
彼女は作品を経るごとに凄みを増していく。器用さ以上に芝居に対する真摯な姿勢がレベルアップさせるのだろう。

なによりムーン 役の生田斗真は、生真面目な性格の役を演じきった。常にこちらを観て今作の意味を問いかける芝居。目で真実を語る。膨大な量の台詞回しに淀みがなく見事だ。それでいて、感情の流れがだんだん混沌と化して、窮地に追い込まれ、極地まで達して壊れきった様をコミカルに演じた。

彼は、劇評家の地位や、ムカつく現実などどうでもよくなって、ワケの分からない状況に追い込まれ、ひたすら“現実的”な存在になっていくのだ。“現実”と“現実的”には違いがある。それらは打算によって分かち難く結びつき合う。打算に打算を重ねていくと、人間はどうしようもなく人間らしくなってしまう皮肉だけでなく、人間の深みや業が芝居に溢れていた。手法に内在する限界点を突破する芝居。それが演劇の醍醐味だ。彼の一挙手一投足で現実にヒビが入り、顔を歪ませて笑うしかない状況を作り出す荒技。彼を観ているだけで人間の摩訶不思議さに触れることができる。ムーンという役は人間に内在する、悲しさや面白さや歪みの象徴ですらあるようだ。

それにしても、登場人物は、みんな即物的で“とりあえず”の存在だ。それが時代なのだろうか。そうでもあり、そうでもない。その瞬間を“マジ”に演じることにこそ演劇への批評性を感じさせる点において、現代でも通用する作品になっている。演劇の魅力は、どんな時代だろうとクソみたいな気分をぶっ飛ばすことにこそある。そう感じさせてくれる力強いパワーがある。

人生はスカタンなお芝居

今作は、現実の設定と回想が入り乱れ、場所も空間も時間も超えて同一化していく演劇でしか表現できない舞台。だからこそ観劇の愉悦に満ちている。それでいて、人間の生きることの余儀なさをさらりと軽妙に見せるところにこそ、トム・ストッパードの矜持がある。

そしてちょっぴり、やけっぱちなところ。はてさて、彼に何があったのだろう?

それは語るに及ばず。人間は一度、踊り始めたら、踊り続けなければならない。人生はスカタンなお芝居なんてもう……。生まれた以上、消滅するのが人の在り方だとしたら、革命も、現実も、嘘も、野望も、欲望も、ただの芝居の道具でしかない。それでお釣りがくるなら結構。それが嘘であり、同時に真実でもある。終わりはどこにも見当たらない。

ちょっとした絶望さえ感じさせる。ドラマにではなく、舞台のカーテンコールが希望だという割り切りに壮絶なカタルシスがあるのはそのためかもしれない。みんなで拍手をして、笑っていれば。終わりよければすべてチャラになる。あらゆるものはプラマイゼロの“死算”の心得。演劇の“定型”を逸脱した“型破りな定型”の舞台として今後も語り継がれていく野心的な舞台となっている。

公演は3月31日(水)までBunkamuraシアターコクーンにて。

舞台『ほんとうのハウンド警部』

2021年3月5日(金)~3月31日(水)Bunkamuraシアターコクーン

作:トム・ストッパード
翻訳:徐 賀世子
演出:小川絵梨子

ムーン 役:生田斗真
バードブート 役:吉原光夫
フェリシティ 役:趣里
ドラッジ夫人 役:池谷のぶえ
サイモン 役:鈴木浩介
シンシア 役:峯村リエ
マグナム/ハウンド警部 役:山崎 一
死人 役:手塚祐介

【STORY】
ムーン(生田斗真)は、まだ二番手の地位に悶々としている若き劇評家。
今日もメイン劇評家に代わり、ある芝居を観に劇場へ。そこで他社のベテラン劇評家バートブート(吉原光夫)と一緒になる。どうやら、彼はこの芝居に出演している女優に気があるらしい。劇評家二人の胸に、さまざまな欲望や思惑が渦巻く中、その推理劇は始まった……。推理劇の登場人物(趣里、池谷のぶえ、鈴木浩介、峯村リエ、山崎一)たちによって演じられる三角関係、殺意、疑念の数々。それを劇評家の視点で見つめながらも、どんどん私的な雑念にとらわれていくムーンとバートブート。
やがて、舞台は幕間へ……。そして……。

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