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草彅剛&小西真奈美らが高らかに謳う人が生きる喜びと幸せ。舞台『家族のはなしPART1 2021』が描く家族の真実

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2019年に京都劇場で上演された舞台『家族のはなしPARTⅠ』の再演にあたる『家族のはなしPART1 2021』が、2021年5月14日(金)から5月30日(日)までKAAT 神奈川芸術劇場<ホール>にて上演中だ。
本作は、関西の劇団「満員劇場御礼座」(満劇)のメンバー、中治信博(淀川フーヨーハイ)と武尾秀幸(あべの金欠)が1話ずつ作・演出を手がける2話構成の舞台。夫婦と愛犬のチグハグなやりとりが面白い「わからない言葉」、郊外に住む夫婦の何気ない日常を切り取った「笑って忘れて」。出演者は、草彅剛、小西真奈美、畠中洋、小林きな子、羽場裕一と豪華なメンバーが揃った。その舞台の初日を観劇することができたのでレポートしよう。


文 / 竹下力

日常とは些細な日々を積み重ねることで生まれる劇空間

朝起きて、歯を磨いて、学校に行って、友達と遊んで、兄ちゃんや姉ちゃんと喧嘩して、恋人とデートして、手を繋いだり、ペットと戯れたり、父親や母親と噛み合わない話をする。そんな何気ない日常を過ごしてくれる家族が誰にでもいる。一緒に笑ったり、泣いたり、喜んだり、時には怒られたりしながら、人生はそうやって、少しずつ成長していく。そんな時、自分って幸せだよな、と思ったりする。

でも、ふと気づけば、そこには何もない日がやって来てしまう。それが“人生”なのかもしれない。残酷かもしれない。だけど、大切な家族と過ごした日々は、悲しむべきことではない。我々の心に、ひっそりと生きてきた証として存在し、自信や勇気に形を変えて心を鼓舞し、未来への道標を示してくれる。

けれど、今の時代、そんなことを実感することさえ容易ではなくなってしまった。一日は目まぐるしく色合いを変え、世界のリーダーは不都合な問題から目を逸らし、人々は世間の目を気にしながら、都合の悪い真実を隠して、それが暴かれるのを恐れるグロテスクな毎日を送っている。大切な人がどこにいるのかさえ分からなくなって、自分さえも見失ってしまう。

それでも、この舞台を観ればきっと、あの時の自分がいるから、我々はここにいることができるのだと、自分の居場所を確認させて、そしてありふれた幸せを抱かせてくれるはず。日常とは些細な日々を積み重ねることで生まれる劇空間だ。みんなそれぞれの役割を演じている。苦しそうにしがみついている人だっているかもしれない。そんな役割を演じることを時には忘れ、周りを見渡して自分にとって大事な何かを見つけて、それを胸に抱き続けようと教えてくれた。

言葉を超えたコミュニケーションの大切さ。第1話「わからない言葉」。

第1話は「わからない言葉」。タイトルの通り、人種や性別の垣根を超えた人間やペットの犬さえも喋り出し、“わからない言葉”がマンションの一室を飛び交ってカオスが訪れ誰にも収拾がつかなくなる。そんなドタバタなファルスになったとしても、人間でも動物だろうと心さえ通じ合えば、自分を見つめ直す契機になり、新しい道を探すことがいとも簡単にできることを実感させてくれるハートウォーミングな物語に仕上がっている。人生は何度でも修正ができるのだ。

舞台はキッチンとリビングがあるどこにでもある普通のマンションの一室。そこに一組の夫婦がいる。それから上下デニムの衣装を着た男(草彅剛)が立っている。キッチンスペースに置かれた椅子に妻の佐藤アサコ(小西真奈美)が座って、リビングのソファーには携帯をいじっている夫の佐藤ヒトシ(羽場裕一)がいる。アサコはヒトシに身内の相談事をしているのだが、夫の心はここにあらず。上の空で返事をするヒトシにアサコのイライラが募ってくる。そんな時に、男が彼らの間に割り込んでくるのだが……男の正体は夫婦の愛犬ハッピーだった。

本作は犬を人間に見立て、演劇的な効果を最大限に使い、犬と人間の視点をテンポよく切り替え、交錯させることでお話を転がしていく。夫婦(人間)と犬の視点、それぞれが何を見て、何を考え、どんな言葉を発して交わり、あるいは反発しあいカオスが生まれ秩序として収束していくか。それがスリリングに描かれる。

そのために、ライティングを巧みに使い、犬と人間の会話をリズムとテンポと間で効果的に見せる。犬は人間の言葉がわからないし、人間は犬の言葉がわからない。絶対に噛み合わないはずなのに、そこはかとなく意思が通じ合ってしまう、日常にありそうなシチュエーションがとんでもない世界を見せるスペクタクル性にこそ面白さがある。

草彅剛のパッと目を引く身体性

作・演出の淀川フーヨーハイの劇作は、シュールな状況を違和感なく立ち上げながら、犬と人間の世界を平等に独立させながらも、緩やかに干渉しあい、手に手を取り合って大きなひとつの世界を描く壮大なお話にまとめあげた。それだけではなく、思わず誰もが“あるある”と納得できる領域に物語を落とし込んだ分かりやすさも本作のエンターテインメント性を証明している。

演出は、アドリブや、小ネタを挟みながら、諍いをする夫婦をなだめようとする主人公の愛犬ハッピーのなんともいえない哀愁と生存の悲しさを醸し出し、そこに含まれる人間のおかしみをじんわりと表現する。犬の突発的な行動でスピーディーにシーンを展開させたり、緩急自在の構成力も相まって、観客を一瞬たりとも飽きさせない手腕が素晴らしかった。

どのキャストも日常を生きているのに、思わず日常を逸脱してしまう摩訶不思議なキャラクターを丁寧に演じた。ヒトシの友人でアジア系のバクバクさん役の畠中洋は、ハッピーの気持ちが理解できる少し怪しげな雰囲気を持った演技に思わず笑みがこぼれる。彼の恋人の日本人のヨシコ役の小林きな子は、真っ当な性格に見えるのに、側から見ると不思議な性格という多面的な役を熱演。佐藤ヒトシ役の羽場裕一も佐藤アサコ役の小西真奈美も、人間の世界ではどこにでもいる夫婦なのに、ひとたび犬の視点からみれば普通ではなくなる個性豊かな演技が板についていた。彼らは犬の視点から日本語を喋ると言葉が脱臼して独特な台詞回しになるけれど、流暢すぎて違う国にいるような気にさえなる。普通とはちょっとズレた日常をきちんと表現していた。彼らの芝居のメタファーの飛躍が今作の面白さを増大させている。

ハッピー役の草彅剛は、アドリブもこなすし、ギャグだってお手の物だけれど、やはりパッと目を引く身体性は唯一無二の才能だと思う。スッとした立ち姿にどこから見ても目を惹きつけられる。舞台に登場して動き出すだけで、観客の目線を釘付けにするオーラがある。演技をしているというより、役と一緒にダンスをしているようだ。ステップは軽やかでターンは美しい。余計な装飾がないから、犬ゆえに自分の心を的確に表現する言葉を持ち合わせていないもどかしさをリアルな台詞や芝居として昇華できるのだろう。
そのおかげで、ちょっとした仕草や飼い主のリアクションで生まれる彼の不器用な心の喜びが観客にダイレクトに伝わって劇場に大きなうねりのあるグルーヴが生まれた。草彅の芝居に観客がノレない訳がなくなる。とてつもなくファンキーで観客の心が思わず踊ってしまう芝居をできるのは草彅ぐらいではないだろうか。

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どんな悲しい出来事も乗り越えることができる。第2話「笑って忘れて」。

第2話は「笑って忘れて」。1話はコントに近くて見事なオチがあるクリスプなお話だけれど、2話は台詞や仕草の余韻やトーンを活かしたビタースウィートな感覚を味わう物語。笑って泣けることこの上ない。こちらのタイトルはダブルミーニングとして捉えられるだろう。お話のテーゼを表しながら、何もかも笑って忘れて過ごそうというポジティブな意味が込められている。

舞台は郊外の庭付きの一軒家。その邸宅に主人公の兵頭弦太郎(草彅剛)の勤めている会社の後輩の桃山なつこ(小林きな子)が訪れる。彼女の応対をするのは、弦太郎の妻である兵頭えみ(小西真奈美)。ただ、彼女は頭を怪我している。そんな時に庭のリノベーション工事の工務店の社員である北山わたる(畠中洋)が訪問する。彼らのやりとりはなんとなくちぐはぐだ。そんな時に弦太郎がやってきて甲斐甲斐しくえみを気遣う。さらに病院の医師の今出川けんじ(羽場裕一)が様子を見に来るのだが……。

このお話は、人間の心の小さなすれ違いが悲しい出来事を生んでしまう一種の運命を暗示するメタフォリックな物語の展開を見せる。そんな出来事なんて笑って乗り越えようとするのに、笑うという行為が余計に悲しさを招き寄せてしまう。決して癒されることのない悲しさが淀みなく表現されている。
けれど、誰かが誰かを支え、その誰かが別の誰かを支えれば、その悲しみと向き合い乗り越えられることも示されている多面的なお話でもある。兵頭夫婦はその宿命的な悲しみと向き合い出口を探している。それがすぐ目の前にあることを信じている。

1話もそうだったけれど、舞台美術の伊藤雅子の仕事が繊細で隙がなかった。どこにでもありそうなマンションや一軒家がフラットに再現され、キャストの芝居の邪魔をせず、それでいて、夫婦の心情の対比を表現したり、登場人物たちの心の繋がりを確認し合うための装置としてきちんと働いていた。全体的な色合いがシックなので落ち着いて観ていられる。

あべの金欠の簡潔で要を得ている人物描写

作・演出のあべの金欠の表現には、悲しさを悲しさのまま終わらせない力強さがあった。怪我をした妻をいたわり続ける夫、そのいたわりをどこか心苦しいと感じてしまう妻の心模様と、彼らのすれ違いと和解を、平易で誰にでもわかる柔らかい言葉で表現していた。悲しさを宿命づけられたお話はやがて温かな心安らぐ終焉へと落ち着いていく。

また、筋の一本通った揺らぎのない演出で、ベタなギャグも、ネタもコントもあるけれど、あくまでスパイスとして効かせながら、全体としては救済の予感に満ちている。それ以上に素晴らしかったのは、簡潔で要を得ている人物描写だろう。等身大で抑制が効いているから人物の心の動きや所作にタメがあって、観客は感情移入しやすい。笑っているときに笑って、泣いているときに泣くことができる。人間の感情の皮を一枚一枚剥がしてむき出しにしてくれる。オフビートなお話だけれど、最後には心がほっこりするカタルシスが待っている。

それを体現するのはキャストの芝居だろう。キャストはきちんと現実の世界に生きているから、どこにでもいる誰かになって、観客の心の隅に必ずいてくれた。どの登場人物にも共感できる。ドジの多い桃山なつこ役の小林は、なんともいえない面白みが台詞回しや所作から滲み出ていた。北山わたる役の畠中も仕事ができない頼りなげな芝居が微笑ましい。1話と同じくこのふたりは舞台にいるだけで観客の心を鷲掴みにしてくれる。手練れで舌を巻く演技。今出川けんじ役の羽場は、とにかく面白いことをしようとするのにスベってしまう、えも言われぬおかしみがあった。1話との演技の振れ幅にも驚かされる。

兵頭えみ役の小西は、怪我とその後遺症に悩む役柄で、どこか地に足がつかずフワフワと漂っていて、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。キュートな声質にガラス細工のような透明感があるからだろう。それを台詞の繊細なトーンだけで表現していて感動した。全体的に白い衣装も彼女の存在感を際立たせた。自分の怪我のせいで弦太郎を悲しませたくないという気持ちが芝居の全面に出ていたし、それがどんどん拡大して、人間が生きることの余儀なさまでも感じさせてくれて圧巻だった。

兵頭弦太郎役の草彅は、さまざまなシーンで葛藤を抱きながら、それを救いに変えようともがいている……実はどこにでもいる市井の人を演じ切った。弦太郎の目線は、常に観客と同じ高さでブレない。観客は共感するというよりも同化さえしてしまう。改めて草彅の演技のインナスペースの巨大さに驚かされる。誰しもが彼になり切ることができる。
2話では、主人公の抱える葛藤をきちんと解消せずに、観客の心に一抹の寂しさを残すように演じて、こんな余白を残せる芝居もできるのだと感心する。1話の上をいくほど、台詞の言葉一つひとつに重きを置いて、それが観客であれ、劇場にいない誰かの心にさえ伝わるように丁寧に喋っていた。草彅の身体性に目がいくことが多いけれど、役と手を取り合って平等に歩こうとするブレない俳優としての姿勢に目を見張る。どの役を演じても必ず“草彅剛”というシグネチャーを刻むことができる演劇界になくてはならない稀有な俳優だ。

この作品で描かれる“家族”は、ハナレグミの名曲「家族の風景」にあるように、みんなの心にある風景として定着した“家族”だ。当たり前すぎて誰もが気づかない景色に特別な色を塗ってくれる。そうして気付かせてくれるのは、この世界には偉そうにできる人などどこにもいないし、誰もひとりぼっちじゃない、ということ。みんな同じように生きて、笑って、泣いたりしている。これまでの人生で積み重ねてきた家族の会話や大切な人のさりげない仕草が愛おしくなる。その確かな感覚は永遠になくならない我々の心の幸せの糧になる。

これまで当たり前だったことが、どこか遠くの世界になってしまった今日において、誰もが抱くことのできる当たり前の幸せは、いつでも我々のそばにきちんとある。世界はまだ終わってはいない。まだ悲嘆にくれる必要なんてない。この世界の誰もが、誰かに寄り添い、誰かを支えて、励ましてくれる。それこそが真の家族の姿だろう。苦しみや悲しみの先には、光り輝く希望があるから大丈夫だと背中を押して我々の歩みを明日へと進めてくれる。そんな力強いモーメントに満ちた傑作舞台だ。

公演は、5月30日(日)までKAAT 神奈川芸術劇場<ホール>にて上演される。

『家族のはなしPART1 2021』

2021年5月14日(金)~5月30日(日)KAAT 神奈川芸術劇場<ホール>

作・演出:
<第1話 わからない言葉>
淀川フーヨーハイ
<第2話 笑って忘れて>
あべの金欠

出演:
草彅剛
小西真奈美
畠中洋
小林きな子/羽場裕一

オフィシャルサイト
オフィシャルTwitter(@kazoku2019)

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