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夾竹桃の花⑧ 原爆の子の像

「明日、日曜日午後、平和公園に行かない?」
紙のパネルをかざす。渋っている様子だったが、紙のパネルで答えが返ってきた。
「いいわ。」

いつものように御幸橋で待ち合わせ、電停に向かう。彼女は思いきるような気持ちで電車に乗る。

広島市の平和記念公園の北側、相生橋を渡り、南方向に歩き、交差路で左側に曲がると、左手に「原爆の子の像」が建っている。原爆の子の像は少女・佐々木貞子の死を契機に同級生を中心に建立運動が起こり、全国からの募金によって1958年5月5日に建立された。

当時、少女・佐々木貞子が入院中、日赤病院にお見舞いの品(愛知淑徳高校・青少年赤十字部から)として折り鶴が届いた。一部が貞子の手に渡った。
「折り鶴を千羽折ると願い事が叶う。」
そう聞いた貞子は折り鶴を折り始めた。亡くなるまで折り鶴を折ったという。原爆の子の像が建立されて以降、千羽鶴が原爆の子の像に献げられ、途絶えることがない。

彼女はかろうじて聞こえるくらいの声で、うめくように呟いた。

「私も・・・」

長い沈黙が続いた。

やがて思い切るように彼女は歩き出した。路の側にはキョウチクトウが植栽されている。二人は縮景園のことを思い出しながら歩いて行く。

原爆の子の像から右手方向に原爆ドームが見える。産業奨励館の腐食が進んでいた。1966年(昭和41年)に広島市議会が永久保存することを決議する。翌年には保存工事が完成した。今は観光客が多く、人々は平和を願うようにゆっくりと側を歩いて行き、ある者は記憶を呼び覚まし、ある者は記憶に残す。

広島平和記念公園には、広島平和記念資料館がある。そこには被爆後の様子や被爆資料や遺品などが展示されている。二人は「平和の火」(へいわのともしび、Peace Flame)を回り込むように歩いて行く。「平和の火」は1964年(昭和39年)8月1日に建立され、反核と恒久平和実現を祈念して、実現するまで燃やし続けられることになっている。並んで「原爆死没者慰霊碑」がある。要人もよくお祈りする。

拓は叔母を原爆で失っており、和子は叔父一家を失っていた。二人は何も言わず、原爆死没者慰霊碑に向かってただお祈りした。

原爆資料館を後ろにして、彼女は急に「帰りましょう。」と言い出し、踵を返した。一緒の電車ではあったが、隣にも座らず、少し席が空いていた。電車を降りてからも距離をおき、帰って行く。軽い会釈をして家の付近で別れた。

ーーー続く⑨