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思い出と暮らす時間

近所のスーパーの商品棚にトイレットペーパーが戻ってきて、入れ替わるように小麦粉とホットケーキミックスが姿を消した。

いま、この時間って一体なんだろう、と思う。

いつものGWだったら、岐阜にある実家に帰省してゴロゴロ三昧だったはず。でも今は「いつもの」がいつものようにできない。
病院や行政、スーパー、薬局、配送業といった最前線にいる方たちには心から感謝しているし、せめて私ができることとして、買い物したら「ありがとうございます」と伝えて、行きつけのご飯屋さんでテイクアウトし、宅配量をなるべく減らしている。本当にささやかだけど。私自身は在宅勤務できる職業だから、感染リスクがほぼなく仕事ができ、今のところ職を失う不安もない。都内でのひとり暮らし(独身)だから、休校になった子どもを日々育てることも、親を介護することも、パートナーとの距離感が変わったりケンカしたりすることもなく、のんきな立場であることは重々承知している。けれどそれでも、しんどい日もある。ひとりでいると考える時間が増えるから。

この時間って、一体なんなんだ。

ネット通販需要の急増で宅配量が大変なことになっているだろうから、新しいものはあまり買っていない。そうなると必然的に、すでに家にあるものを手に取ることになる(我が家にはWi-Fi環境がない&ギガ不足のため、動画はちょこちょこ程度)。何度も読んだ本やマンガ。何度も観たDVD。何度も聴いたCD。引っ越しのたびに捨てられず生き残ってきた精鋭たち。

手に取るとオマケとして、それに夢中になっていた頃の思い出も付いてくる(なかなかに主張の強いオマケだ)。

高校生の時、心酔していたインディーズのヴィジュアル系バンドのCD。普段かけている映画やディズニーのサントラを軒並み聴き倒してしまったので、数年ぶりに再生する。いま聴いても、いいな、って思う。彼らをカッコいいと思っていた気持ちは、ちっとも色褪せていない。
……って、そのキレイなところで思考が止まればいいのに、多感な高校時代の恥ずかしすぎる記憶もべたりとくっついてくる。

当時、私は「死ね」という言葉をよく使っていた(これ、こうやって書くだけでめちゃくちゃ恥ずかしいですね……。もしも過去に戻れたらすべて取り消したい)。

(誤解のないように断っておくとヴィジュアル系バンドの影響では断じてない。アイドルに心酔していようと、二次元に心酔していようと、何に心酔していようと、私はその言葉を使っただろう。恥ずかしながら高校生になっても中二病を引きずっていたのだ)

「良い言葉じゃないよ。」そう母から注意されても、なぜ使ってはいけないのか本気でわからなかった。「死ね」という二文字は、鬱屈した思いや言葉にできない複雑な感情を“強く伝える”のに便利だった。死ね死ね 言ってた。自分が嫌だ、と言う代わりに言っていたのかもしれない。そうしていないと息ができないかのように、言いまくっていた。

それから数年のうちに、祖父が亡くなって、大切な友達を亡くして、祖母も亡くなって。その間に、うれしいこと、かなしいこと、いろんな出来事があって。

「死」という言葉の意味が、体験を通して変わっていく。

いまの私は決して、「死ね」という言葉を使うことはない。テレビやマンガで、その言葉を目にすると言い換えはできないものだろうか?と考えてしまうくらい、自分のなかの言葉の意味が大きく変わった。けれど使っていた時代があったのも、確かだ。

いま世の中の空気はギスギスして、ぴりりとしてる。

スーパーにいる人たちの表情だったり、たまに開くSNSとかから感じ取れる空気に透明なトゲが付いているように感じる。

いまもし自分が高校生だったとしたら、誰に、どんな言葉を吐いていただろう。当時は存在していなかったSNSもある。考えただけでゾッとする。私はもう、自分を含め誰も傷つけたくはないし、誰にも傷ついてほしくない。そして、心の声や感情を伝えるためのたくさんの言葉を、いまの私は持っている。かつて、あの言葉を言ってしまった分を帳消しにできるような言葉をコツコツ世の中へ返していきたい。そう思う。

いまこの時間は私にとって、思い出と暮らす時間だ。

誰かと暮らしていない分、思い出と上手に付き合えるように。しんどい時もあるけれど、抱え込み過ぎないように。黒歴史を少しずつ浄化できるように。人にやさしくできるように。しっかり食べられるように。ぐっすり眠れるように。

私たちは、明日をちょっとずつでも良くすることができる。

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