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弱者男性の定義づけについて

 なんてことの無い代入である。

 橘玲さんの著作からの知恵を借りよう。幸福の資本論という本では幸福の資本というものは3つの要素から成り立っているらしい。金融資産、人的資本、社会資本。である。

 どれかが欠けていることを自覚したときに自らの不幸を感じるのだという。これらの三要素は多少の不足なら補える。という性質を持っている。金が無ければ人に頼りものを借りたり、人的資本に欠ければ社会資本に頼り孤独を紛らわす。三要素を満たした人間は「超充」と呼ばれるとしている。超人になぞらえて名付けられたのだろう。基本的に超充の人間はごく少数だという。

 三要素のどれも持っていない人間は貧困、お金だけならばソロ充、友達だけならプア充。などとなるわけだ。金融資産、人的資本、社会資本。どれか一要素しかない状態も貧困に近い状態である。

 さて、この図式を借りて代入すれば男女問わず貧者というものが明らかになる。貧者と弱者は違うのではないか?という指摘もあるかもしれないが生きていくことに不自由しているのならば大した違いは無いものとしよう。

 弱者はそうだとしても男性とはどういう事か?男性が弱者になるなどおかしなことではないか?とお思いの頓珍漢もいるかもしれないが、この図式に当てはめれば誰しもが生活に困った貧者や弱者になれる。そして恐ろしい事に時々この器は底が抜ける。絶望、孤立、貧乏。誰しも貧困に陥るのだ。

 金融、人、社会。それぞれの資本がそれぞれの不足を補うという事だが、補えないほどの深い絶望を感じ取ってしまったときにこれらは底が抜ける。

 弱者男性についてはここの人的資本の底が抜けやすい。家族や恋人を持てぬという事は大きな絶望につながりやすい。助けられることも無ければ助けることもない。この孤独を癒す術が無いのであれば容易に絶望に陥るだろう。

 弱者女性の場合は金だろう。経済的な収入格差というものは男女でも差が出やすいとは良く聞く話だ。それも婚姻関係によって補うことも出来る事を思えばまあまだマシなのかもしれないが。容姿の悪い人間はその恩恵に預かりにくいのかもしれない。

 どちらの方が不幸なのかと言う不幸競争が世の中では行われているが端的に両方不幸であるので弱者競争をしている場合ではないのだが。我こそは情けを受けるべき弱者であるという主張は終わらぬようだ。貧しさとは精神性をも蝕むのだろう。

 性別にかかわらず貧者には個別の状況に合わせてケアが行われるのが福祉というものだろう。そもそもにおいてこの貧者達が結婚でもした方が良いのではないのか?とは思うものの、そんな当てがえ論のような女性の人権を無視した発言が許されるわけがない。令和においては割れ鍋に綴じ蓋と言うわけにはいかない。世界に一つだけの鍋に相応しい世界に一つだけの蓋でなければならないのだ。

 どこにもそんなものは無いのかもしれないが、夢を信じる事は誰しもが持つ権利だろう。パンドラの箱と同じである。どのような災厄も希望の前には無に等しい。

 そんなわけで、富むべき手段も取れない我々が貧しいのは当然の結果だともいえよう。


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