見出し画像

『ホワイト・ロータス』人間みんな猿でも馬鹿じゃない

 CINRA連載で特集した、金持ちをコケにするジャンル「イート・ザ・リッチ」。

 これの決定版となった人気HBOドラマ『ホワイト・ロータス / 諸事情だらけのリゾートホテル』S1とS2、その転換と哲学もふくめネタバレ感想。

「支配と服従」のシーズン1

 『ホワイト・ロータス』で重要なのは「はじまりと何も変わらないこと」である。バカンスにやってきた富裕層は内面的な変化を遂げるが、彼らの社会的立場もとい格差構造そのものは不変なのだ。
 経済を主題にしたS1でわかりやすいのは、視聴者の感情移入を呼びやすい「庶民」寄りに設定されたレイチェルとポーラだろう。ジャーナリスト志望のレイチェルはパワハラ夫との結婚がまちがいだと気づき別れを切りだすが、結局安定したリッチ妻の人生を選ぶ。ポーラにしても、己をコントロールするようなオリヴィアへの復讐の道具として従業員カイを利用するが、結局キャリアの安全のために友人を選ぶ。「搾取される有色人種」自認として彼にシンパシーを抱いたのだろうが、結局、高学歴たるポーラの社会的立場はカイよりもオリヴィアに近いのだ。結果、身から出た錆のように、秘密の共有によって友人関係の「上下」関係が強化されて終わる。

 こうした「支配と服従」のテーマは、白人が略奪した地に建てられた高級ホテルが舞台な時点で明らか。だから、まるで観光パンフレットのように爽やかなラストも笑えない。バカンス先で「生きがい」を発見できたクインの社会的立場は結局変わっていない。ハワイ滞在も、金持ち息子の自分探しの通過儀礼みたいに終わるだろう。一方、ヴェリンダのほうは、開業の夢を犯され、同僚が逮捕され、上司が殺されたというのに、偽の笑顔でお客さまを迎える日々をつづけている。ep1で支配人が新人に教授したように、儀式的に自らの人間性を閉じ込めなければいけないのが彼女の社会的立場だからだ。クインとヴェリンダの対比は、両親から「このご時世に人権を剥奪されるヘテロ白人男性」と同情されつづけた前者がまったくそうではない皮肉をあぶり出している。

「世代より継承」なシーズン2

CINRAに書いたように『ホワイト・ロータス』S1は徹底した格差構成で「イート・ザ・リッチ」ジャンルの定形となった。簡単にまとめるとこの二条である。

①リッチ客と地元庶民の社会的立場の格差は変わらない
②観光客が嵐のように地元民の人生や尊厳を破壊する

 しかし「イート・ザ・リッチ」が大流行した2022年末、性愛を主題にイタリアに舞台を移したS2で、この設計が覆されている。①を持続しながら②がひっくり返ったのである。今回、地元民のほうが観光客を獲物にするのだ。まずターニャは死ぬし、売春婦の二人はイタリア系一家への詐欺を成功させた。ただし、カモにされたアルビーは5万ユーロ程度でビクともしないから、社会的立場自体は最初と変わっていない。くわえて、従業員側のキャラクターもポジティブ待遇に転換した。男性からのセクハラに怒る支配人は自分も部下にセクハラを行ったが、セクシャリティ肯定へ向かうハッピーエンドをもたらされている。
 超富裕層を馬鹿にしまくる作風も刷新された。今回の「馬鹿」代表が選挙に行かない保守的リッチ妻ダフネなのだが、彼女こそもっともしたたかでゾっとするキャラクターになっている。夫に従順なフリをして不倫相手の子を産み「自分は犠牲者ではない」思想をイーサンに伝染させた。結果「正直さ」を誇りにしていたイーサン夫婦は「嘘」のゲームによって関係を持続させるダフネ夫婦のようになる。

S1ポーラは植民地主義の本をよく手にしているが、オリヴィアと同じく「スタイリング用だから」読んでいない

 もうひとつのレガシーたる世代描写にもアップデートが見られる。S1でウケたのは、大衆文化上のZ世代のステレオタイプを決定づけた戯画だ。前述のオリヴィアとポーラは社会主義思想を語るが実はともなっておらず、親と同じ「弱者を犠牲にする横暴な特権の持ち主」であった。
 こうした皮肉の背景にあると考えられるのは、社会や上世代に対する「犠牲者意識」を訴えるイメージが強いアメリカのZ世代が、マクロ規模では自動車事故率や早期妊娠率が低く進学率や資産投資率が高い「もっとも安全な世代」兼「もっとも裕福なジェネレーションになりうる世代」であること…つまりイメージと相対的実態のギャップだろう(ついでに、ミレニアル世代からつづいた「社会正義を声高に唱える若者像」にみんなが慣れた。米国内の「党派分断」認識が急落したコロナ禍で一気にノスタルジー対象となり、そうしたイメージが同世代からも堂々嘲笑われる存在になった感がある)。

 S2のアルビーも典型的なZ世代戯画である。リベラルな一流大学に通って「ジェンダーはつくりもの」と主張するフェミニストになった。でも、祖父から指摘されたとおり「男性は加害者/女性は犠牲者」認識に凝り固まるセクシズム=性別主義の気があるから、その救世主コンプレックスを見抜いたルチアに騙されるのだ。巧いのは、彼が盾にするジェンダー観が家庭問題所以だと察せるところだろう。祖父と父が不倫を繰り返す家における「良い子」で、ずっと調停役だった。S1オリヴィアと同様に、社会正義は親に反発するための武器であり、抜本的な問題は親子間の機能不全である。だから、ルチアに騙されたアルビーは、親と同じように家族の不和を利用して利益をさらう「プレーヤー」への「成長」を遂げるのだ。その後の空港では、はじまりと対極に、祖父、父、息子みな同じ女性を凝視するようになる。年代ちがえど全員「女好き」な一家というわけだ。つまり、どんなに世の中で「前世代と別ものな新世代」概念が叫ばれようと、家庭環境や社会的身分を含めた生育歴こそヒトをかたち作るという「世代より継承」オチとなっている。

「人間みんな猿」

 アルビーの結末は理に適っている。『ホワイト・ロータス』シリーズとは、クリエイターのマーク・ホワイトの「人間は一皮剥げばみんな猿」の哲学に基づいていた物語だからだ。1970年カリフォルニア生まれのホワイトはプロテスタント牧師のもと育った。ゆえにキリスト教保守の「共同体」信仰を浴びつづけたわけだが、同性愛者であることもあり、崇高な理想に対する疑問は晴れることがなかったという。彼の唱える「猿」とは、家族主義を掲げて性欲を不浄≒「獣」としたりするような宗教倫理をベースにした言葉づかいだろう(ややデリケートな表現だが)。
 ホワイトは、わりと遅咲きで、2003年『スクール・オブ・ロック』を当てたあと、強者と弱者のグループにわかれて争うキリスト教ベースの番組『Survivor: David vs. Goliath』に出演したりもしていた。このリアリティショーの構成や演出技術をもとにした群像劇が『ホワイト・ロータス』である。

 「人間は一皮剥けばみんな猿」という哲学は、見てくれにこだわるリッチピープルたちの滑稽さを強調する作風にもつながっているし「世代より(生育歴の)継承」思想にも適合している。だからこそ『ホワイト・ロータス』で最も魅力的なキャラクターがターニャなのだ。母親と同じ双極性障害の気がある彼女は、感情ダダ漏れで「獣」の如き欲望がわかりやすい。そうやってしか生きられない悲劇性も相まり、2020年代でもっとも愛されるTVキャラクターの一人となった(この役でアワードを席巻している演者ジェニファー・クーリッジがゲイアイコンであることもあり、S2ファイナルの"these gays, they're trying to murder me"は大人気ミームとなった)。

 ただ、この群像劇の秀でたところは、人間がみんな「猿」でも「馬鹿」とまではいかないところだ。実は「世代より継承」のシナリオは、ターニャのアシスタント、ポーシャにも見ることができる。彼女は自己が確立できておらず流されつづける庶民寄りのZ世代で、そのアイデンティティクライシスは毎回方向性が変わるファッションにも反映されていた。それが最後の空港で「自分を隠せるオフなスタイルに着地できた」というのだが、なんだかターニャのような大きなサングラスとピンクで、喋り方もそんな風になっている。考察するなら、ターニャは母親と同じく「海葬」されてしまったが、ポーシャこそが彼女の真の遺産を継承したのだ。
 だから、ターニャは正しかった。「あなたは若い頃の私に似ている」と危惧したように、ポーシャもまた、自己受容できず男に流されつづける要領の悪い女だ。言い換えれば、ターニャは不安定で不器用だったとしても、馬鹿ではなかった。同性とのつきあいを否定していたにもかかわらずアシスタントを彼女なりに心配していたし、ちゃんと洞察力があったのだ。ホワイトが授けた女同士の結末は、皮肉に見せかけたラブレターに思える。

・関連記事


よろこびます