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『プリシラ』王子様に閉じ込められたお姫様

 ソフィア・コッポラ初の翻案作『プリシラ』は、まさしく彼女にしかできないような映画だ。というのも、全編とおして、ハリウッドの王、エルヴィス・プレスリーの音楽家としてのレガシーにまったくもって無関心なのである。業界人から怒りを買いそうなこのスタンスは、主人公あるいはその娘と同じくショービズの王族たちと少女期をすごしたからこそであろう。そして、ガーリィ「美学」分野を確立した作家として、きちんと少女期の残酷さをとらえている。ジェーン・カンピオンの言うとおりだ。

「どうか、ソフィア・コッポラにだまされないで。彼女の見かけのやららかさ、やさしき感受性の視点に。ソフィアがとるやらわかさは、厳しさを届けるためにある」

Alfonso Cuaron, Jane Campion and More Directors Praise 2023 Films - Variety

映画のあとの物語はこちら: プレスリー家の愛と悲劇の物語、リサ・マリーVSプリシラ:映画『プリシラ』制作で明らかになった新たな真実とは?【辰巳JUNKコラム】

軟禁される少女

  『プリシラ』は思い切りのいい映画である。これを観ても、主人公の夫であるエルヴィス・プレスリーの当時の人気、音楽なんかが全然わからない(著作管理団体公認の『エルヴィス』はすぐれた予習になるだろう)。元妻プリシラの自伝をベースにしているから、楽曲すら流せなかったらしい。そのぶん、創造は自由だ。冒頭流れるのはラモーンズの "Baby, I Love You" 。1959年が舞台なのに80年代の曲である。仕掛けとしては、劇中と近い60代ヒットのカバーであり、これら両方をプロデュースしたのがフィル・スペクター……キャリアを求める妻を軟禁したとされる音楽家だ。
 『プリシラ』も軟禁劇に近い。1959年、24歳のエルヴィスは14歳のプリシラと出逢って恋に落ちた。彼は婚約を条件に相手方の親を説得し、彼女を自分の家の近くの高校に通わせて同居させた。こうして、女子高生は王子さまのお城に閉じ込められる思春期を送ることになる。

自分がどんなファッションを好きかもわかってない内に身なりを強制されていったらしい

 スーパースターの未成年の恋人だから彼女は転校先で友達づくりも制限されるし、パパラッチや追っかけが常時押しよせるから庭で犬と遊ぶことすら許されない。エルヴィスが男友達を連れてくることはあるが、金を持った野郎たちの余興なんて女子高生が馴染めるものではない。邸内の同性と友だちになることすらできなかった。エルヴィス軍団がどれだけ浮気をしているか知っているから、彼らのガールフレンドたちとは関係を深められなかったのだという。さらに、仕事でずっと外出している夫に、働くことを許さずいつでも電話に出られるよう命じられていた。孤独なお姫さまは、スーパースターの恋人の浮気疑惑を新聞で知ることしかできない。あのエルヴィス相手なのだから、つきあうなら「浮気されるのは当たり前」な覚悟が必要となるわけだが、それがわかる年齢ではなかったプリシラは、成長する機会すら与えられぬまま──コッポラいわく『不思議の国のアリス』かのように──お城のなかに迷い込んでしまう。

虐待か純愛か

 要するにこれ、かなり不道徳なラブストーリーである。今風に言えばせいぜいグルーミングだ。ただし、エルヴィスは彼女が高校を卒業するまで性的関係は持たなかったという。だから本格的な児童性虐待までいかないのかもしれない。この一般良識的には「マシ」な事実は、不穏なおとぎ話に暗転していく。劇中のエルヴィスはプリシラの「大切な処女」に固執していたから性交渉を拒んでいたのだ。孤独なスターダムで母を亡くし不安定になっていた彼にとって、彼女は「純真なお人形」である。なにを着るかも厳しく管理し、銃のコーディネートも課し、歯向かわれると「男みたいな行動」を咎める。スピリチュアルに傾倒すると妻をないがしろにするようになるが、それに飽きたら結婚モードにひるがえる。

エルヴィス邸の装飾品であるプリシラは、ウェディングケーキの飾りと同化する

 米国だと「邪悪」でしかない関係なのだが、大切なのは、現在70代のプリシラ本人がエルヴィスを深く愛しつづけていることである。

「私は彼を(スターとしての)エルヴィス・プレスリーとして見たことは一度もありません。私は、夫として、子どもの父親として見ていました。妻であること、彼の世話をすることが大好きでした。これ以外の視点は存在しません」
プリシラ・プレスリー

Priscilla Presley & Sofia Coppola Interview - 'Priscilla' - Parade

 日本でも起こる議論だ──合意形成が不可能とされる年齢差だった馴れ初めにグルーミング疑惑がつきまとったとしても、それから家族として長く愛し合っていたとしたら、第三者が否定すべきことなのだろうか? この難題が立ちふさがる物語だからこそ、映画に善悪や倫理を持ち込まないソフィア・コッポラの作風とマッチする。『プリシラ』はロマンスと虐待に境界線を引こうとしたりしない。原作の「少女の視点」の創造に徹したガーリィ成長譚なのだ。ゆえに、スーパースターとしてのエルヴィス・プレスリーは画面の外だ。「少女」の目から見た彼、「少女」の目から見たお城だけが映される。

「生き方」としてのガーリィ美学

プリシラは妊娠9ヶ月でもエルヴィスの「理想像」のためバイクに乗っていた

 コッポラ最大の武器であるガーリィ美学設計も強靭になっている。お城に落ちていく少女の初恋は、ロマンチックな童話のように彩られる。社会の倫理や親の苦悩がどうあれ、ティーンの「視点」からすれば、王子様によるドレスアップの強制すらおとぎ話である。この美学こそが、映画最大の不穏を担う。陣痛がはじまったプリシラは、大騒ぎする周囲から孤立して、冷静にアイラインを引く。下手すれば自分と子どもの命が危ういのに、夫が自らに抱く理想像を徹底するのだ。これが、お城でついた「生き方」だ。現実のプリシラも、化粧と髪を整えずリビングに下がったことはなかったという。
 プリシラの「生き方」は、そのグロティシズムをあらわにした瞬間、別方向に切り替わる。言いつけられた黒髪をやめ、外の世界に出て、趣味の空手をはじめ、友だちもつくっていった。成長したプリシラは、愛しいスーパースターに別れを告げる。グレースランドの豪邸を出る時には、エルヴィスが求めないであろう薄化粧のデニム姿だった。化粧やファッションを「美学」としてではなく、キャラクターの「生き方」として組み込む意匠。それこそソフィア・コッポラの強さの正体かもしれない。

現実では、あの空手トレーナーが不倫相手でもあった。母親問題を抱えるエルヴィスは出産した女性との性交渉が難しかったらしい

 『プリシラ』は、プリシラがお城から出て終わる。少女期を映すこの映画は、いさぎよく少女が大人になった瞬間に幕を閉じるのだ。門出とともに流れるのはドリー・パートンの "I Will Always Love You"。これまたエルヴィスの曲ではないが、同時代の縁深い作品でもある。当時よくあったように、エルヴィスはこのヒットバラードをカバーしたがった。しかし、悪徳マネージャーはドリーから作曲権利の半分を奪おうとした。ドリーは頑固として拒否し、周囲から罵倒され一晩泣き明かしながらも自分の創造物を死守した。つまり "I Will Always Love You" とはあの時代にひどく抑圧されていた女性の主体性を象徴する曲である。エルヴィス当人は、離婚届を提出した際、プリシラの横でこの曲を口ずさんだという。後年、女優となったプリシラは、ドリー・パートンその人と友だちになった。

一緒にいてもあなたの邪魔になるだけ だから行くよ 
だけど覚えておいて いつだってあなたを想いつづける
あなたを永遠に愛しつづける いつだって 
あなたとのビタースウィートな思い出 それだけを胸に 
さようなら どうか泣かないで

ドリー・パートン "I Will Always Love You"

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