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『パスト ライブス/再会』 運命じゃない運命

 1,000万ドルもの北米興行収入を稼ぎあげた『パストライブズ』は、北米の若年映画ファンに感動の波を起こしたインディヒットだった。ただし、移民女性の男女関係をとおして韓国文化も描いているから、同じ東アジアの日本育ちだとまた違った印象を抱くかもしれない。

あるあるネタの壁

「見知らぬ者同士が道ですれ違い、袖が偶然軽く触れたら、8000層もの“縁”が結ばれたということ」

 『パストライブズ』をとりまくのはイニョン〈縁〉の概念だ。仏教的なアイデアと言えるが、現代韓国そだちの若者たる主人公たちにとって、真剣な信仰というわけでもないだろう。説明されるとおり、韓国人が口説き文句でよく使う「あるあるネタ」程度と思われる。ただ、戒律のようにはっきりとせず世俗に浸透した「あるあるネタ」だからこそ厄介とも言える。アメリカのユダヤ人たるアーサーにとって、その概念は「あるあるネタ」ではない。だから彼は、おそらく気をつかって「それ信じてるの?」と質問してしまう。一方、12歳までソウルで育ったノラは、この「あるあるネタ」を「あるあるネタ」としてヘソンと共有できる。その土地特有の世俗だからこそ、アーサーがこの壁をこえられることはないだろう。

ヴィランは距離と時間

 ノラとヘソンの運命的な関係性を前に、アーサーは「邪悪な白人男性」つまり悪役のポジションだと卑下する。でもこの映画の肝要は、そうではないことだ。ノラにとってのアーサーは、実のある関係を積み重ねた、気を許せる相手である。長らく会っていないヘソンのほうがそう簡単に素を見せられない相手だろう。
 セリーヌ・ソン監督が「『パストライブズ』のヴィランは年月と太平洋」と定義したのはもっともだ。この映画に悪人はいない。ただ、主人公の両親が移民したことによって、離れ離れになった幼なじみと結びついたカップルがいるだけだ。ノラにとってのヘソンとは、運命の相手というより、離れてしまった故郷の象徴である。野心ある彼女のニューヨーク人生は充実している。それでも、失われたものがあるのだ。ハングルでのタイピングがおぼつかないノラの寝言は韓国語だ。移民の彼女にとっての初恋相手は「あったかもしれない人生」の暗喩でもあり、だからこそ「取り戻せない」ものである。

アメリカのSNSでバズったピースサイン

 ヘソンとの再開は「取り戻せないこと」の確認作業かのようだった。ソウル人のヘソンとちがって、ニューヨーカーのノラのまわりに兵役経験者はいない。残業手当がない労働環境にも驚く。グリーンカードのために作家同士で急いで結婚したから「家長としての経済的責任」の重圧にもピンとこない。もちろん、写真撮影でぎこちないダブルピースなんかしないだろう。

一度きりか、もう一度か

 ノラとヘソンは、韓国語がわからないアーサーを置いてけぼりにして、イニョンの「あるあるネタ」で「あったかもしれない人生」について話し込む。言い換えれば、二人はここで「取り戻せないこと」の確認作業を終えた。来世に希望を託した最後、ノラが階段をのぼって涙を見せられる相手は、かつての幼なじみではなく、夫のアーサーになっていた。

 『パストライブズ』の受容で面白かったことがある。アメリカを中心とした英語圏の感想では、この映画のメッセージが「人生は一度きりだということ」とする見方が散見されるのだ。生まれ変わりなんてない人生においての機会費用こそ、ノラとヘソンの関係だった、というニュアンスだ。まぁ基本的に、米国の特にプロテスタント文化だと(いろいろ柔軟でありつつ)世俗的にも「人生一度きり」が前提になりがちだから、それらしい感想ではある。でも、別の見方もあるんじゃないかと思う。それは、イニョンと輪廻転生を信じるかどうかにかかっている。「来世で逢おう」という別れの言葉は、縁を信じるなら悲劇ではない。二人は今世では運命の相手ではないと運命づけられていたかもしれないが、輪廻転生があるとするなら、まだチャンスが残されている。イニョンを真面目に信じていなくても、ときどき「来世で彼と逢える」と浮かべることがちょっとした希望にはなるはずだ。「あるあるネタ」の共有にはそんな力がある。あれは、アーサーとは交わせない、二人だけの特別な約束なのだ。

男らしさは自己犠牲

セリーヌ・ソン監督と夫のジャスティン・クリツケス

 余談なのだが、この映画、男性キャラクターがやさしい。たとえばバーのシーンだと、仲介役なのにその場の一人がわからない言語で話し込むノラは結構なマナー違反だったりする。あのセッティング自体、結構な修羅場だが、アーサーは一貫してピリついた態度をとらない。つまり全体的にソフトな男性像である。キャラとしてもミレニアル世代のニューヨークのユダヤ系作家と高学歴韓国男子なので、こういう人もいるだろう、的な温度に落ちついている。『パストライブズ』は韓国系移民である監督の半自伝的で、同じ劇作家の白人夫と初恋の韓国男子を仲介する奇妙な体験から生まれたというのも腑に落ちるかんじだ。
 だから米国で「ユニークな男性像」と評されたりもしたのだが、セリーヌ・ソン監督の男らしさ/マスキュリニティ観が面白い。

「男らしさについての議論では、加害性や残酷さに行きつきがちです。しかし、私個人の人生にあてはめて考えてみると、男らしさとは、自身のニーズと欲求をあとまわしにすることでした。できるかぎりの自己犠牲ですね」。ソン監督は語る。ノラの立場を理解しているアーサーは、ヘソンの訪問についての不安を明かすものの、それを阻止しようとはしない。これこそ、攻撃的な表現よりも真実味を感じさせる男性性だという。「アーサーとヘソンの初対面で、前者が韓国語で挨拶し、後者が英語で返します」。この瞬間、ソン監督が尊重する男性性が表出している。「あれが男らしさを見せる方法です。私がアーサーにつながりを感じられた理由は、彼が韓国語で挨拶できたことにあります」

Past Lives director Celine Song tells us about making the film - STYLIST

 それでもソフトすぎる、みたいな声もあるだろうけど、自己犠牲としての男らしさ定義はいいところを突いているように思う。これなら、加害性定義とはちがって、表面的にはソフトな男らしさの発揮もとらえることごできる。


よろこびます