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『オッペンハイマー』滅亡の波紋

 『オッペンハイマー』はクリストファー・ノーラン監督の集大成かのようだ。歴史的人物の感情を体感させるかのような主観描写に多くをさく型破りなこの伝記映画には、監督が手掛けてきたジャンルの様式がとりいれられている。

【以下、ネタバレ】

ヒーロー・オリジンの行方

 監督いわく、第一幕はスーパーヒーロージャンルのオリジン、略奪行為とされたマンハッタン計画を描く第二幕は強盗アクション、そして第三幕は会話主体の法廷劇。つまり『バットマン ビギンズ』や『インセプション』にちょっと近い。
 最初がスーパーヒーローオリジン風といっても、主人公たるロバート・オッペンハイマーは第一幕から嫌な奴である。わざわざ史実を変えて早い段階で子どもをさらっと友人に預けるし(これは時系列的には後半だが)会ったばかりのルイス・ストローズの職業を侮辱したりする。まぁ「人間性に問題ある男性の天才」は人気のあるアンチヒーロー型ではある。最近でも例示に困ることはない。スティーブ・ジョブズやイーロン・マスク、カニエ・ウェスト、そしてブルース・ウェイン。彼らの横暴の「免罪符」とは、世界を革新しうる才そのものである。『TENET テネット』のダイアローグにも登場するオッペンハイマーその人も天才だった。劇中版では「ルールを破ってもいい才能の輝き」を自負している。では、その才能の「結果」が、人類を絶滅させうる大量殺戮の武器だとしたら?

同情価値なき主人公

毒りんご事件において、ボーアが同席していたのは創作

 『オッペンハイマー』においてパターン化しているのが「自分がとった行動の結果に慌てる主人公」。はじまりの毒りんご事件が象徴的だ。気に食わないチューターの果実に毒を注入した主人公は、あとになって慌てだし、尊敬するニールス・ボーアを殺してしまう「結果」をなんとか阻止する。スーパーヒーロージャンルのオリジンが意識された第一幕において、ボーアは才ある主人公に助言をもたらす師匠である。彼の格言「蛇が隠れていないか確認しなくても岩は持ち上げられる」とは、理論研究の薦めであったが、彼が食べようとした毒りんごへの皮肉にもなっている。

"You don't get to commit sin, and then ask all of us to feel sorry for you when there are consequences."

 二股の末ジーンに悲劇が起こると、自分が原因の暗殺疑惑も抱いて打ちのめされるのだが、今度は妻のキティが叱責する。直訳するなら「自分で罪を犯したのだから、その結果がもたらされても同情をこう権利などない」。この言葉こそ『オッペンハイマー』を体現している気がする。だって彼は、戦勝がほぼ決まっていたのに、高慢な理屈を行使してマンハッタン計画を持続させたのだ。

「ドイツは降伏間近だ。日本は敗けている。人類にとっての脅威は我々となった。我々の原爆開発計画に」
「ヒトラーが死んでも日本はまだ戦っている」
「日本は敗戦確実だ」
「戦争を終わらせるのは兵士ではなく我々だ」
「この兵器の対人使用を正当化できるのか?」
「我々は理論家だ。我々は想像した未来を懸念できる。理論家でない人々は、兵器が実際に使用されるまで適切な恐れを抱くことができない。世界がロスアラモスの恐るべき秘密を学びさえすれば…我々の行いによってかつてない平和がおとずれるだろう」

Oppenheimer Screenplay by Christopher Nolan

 現実には米政府の意向やソ連の核開発など色々あっただろうが、この映画のこのシーンに限れば、知の追求に突き動かされて原発開発、そして投下を推奨したかのようである。こうして、ノーランいわく「空気を読まなくてもいい賢人特有の過ち」を犯して国際秩序を読み間違えた彼は、後悔に苛まれることになる。New York Timesの物理学記者の言葉を借りれば「自分で作りたくて作った道具を使われることを嫌がる」「次の殺人を止めるために逮捕を求める連続殺人鬼のよう」な主人公で、ノーラン流には「規制を求めるIT企業の科学者」である。

遅れて来る結果

オッペンハイマーが投下直後のスピーチの時点で罪悪感を抱いていたことも本当らしい

投下成功スピーチの場面で留意すべきは、群衆の音が遅れて挿入されることだ。トリニティテストでも同様の演出がとられている。「この映画を通して描かれるのは、結果です」。ノーランは質問に答えた。「忘れられがちな結果の遅れた到来。それがあふれている映画です。直感的にも物語的にも」

‘Oppenheimer’ Ending, Explained by Christopher Nolan - Vulture

 「結果(Consequences)」という言葉が繰り返される『オッペンハイマー』のテーマはあきらかだ。第三幕では「遅れた結果の到来」が押し寄せる。友人との会話やジーンとの不倫が失脚の要因となっていった。何より、戦後調子にのっていたオッペンハイマーは、よりにもよってルイス・ストローズを侮辱して恨みを買っていた。ただし、劇中でストローズの私怨を決定づけたのはアインシュタイン絡みの被害妄想のほうだから、予期せぬ「岩の下の蛇」そのものである。ノーラン監督が同場面を「映画の着地点」と決めていた理由は、このオリジナル展開が「結果の遅れた到着」を象徴しているからではなかろうか。
 はじまりの毒りんご事件には後日談がある。毒殺疑惑をかけられた現実のオッペンハイマーは、両親の尽力により退学を免れた。しかし、原爆投下後、その兵器の悪影響の研究を最初期に発表したのが、あのとき毒殺されかけたパトリック・ブラケットその人だった。この小さな研究者界隈の影響のつらなりこそ、ノーランが惹かれたものだったという。

アメリカのプロメテウス

 重要な「結果の遅れた到着」は、日本への原爆投下がニュークリア・ホロコーストと呼ばれたことだ。元々、ユダヤ人のオッペンハイマーはナチスを打倒する使命を掲げていた。それなのに、彼自身が人類の絶滅を可能にする兵器を完成させて民間人の大量殺戮に貢献してしまったのだ。
 晩年、日本に降り立った現実のオッペンハイマーは、広島と長崎に足を踏み入れることなく、東京と大阪で講演を行い、こう語ったという。

「知恵の木とアダム、そしてプロメテウスの伝説が示すのは、人間の生活で当然となっている指針を侵す危険性である」

 この二つのたとえは、映画のオリジナル展開とひもついているかのようだ。

ルーベンス『アダムとイヴ』, ヒューガー『人類に火をもたらすプロメテウス』

 ボーアの「石の下の蛇」の教えは、りんごとして描かれることが多い知恵の木の実とアダムを彷彿とさせる。神の楽園において、最初の人類アダムは蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べた結果、知恵を得た「堕落」者として追放された。メタファーにならえば、オッペンハイマーとは、アダムどころか、知恵の木の実に毒を入れて人に食べさせようとした蛇である。楽園追放の物語は、人類の破滅を呼びうる科学への警鐘としても用いられてきた。現実のボーアにしても、科学の予期せぬ「結果」について語った人物だ。劇中、理論の美徳を説いたはずの「石の下の蛇」のたとえは、ロスアラモスにて原爆開発の後押しかのように反復引用される。この場面でボマーがオッペンハイマーに与えた呼称「アメリカン・プロメテウス」とは、そのまま原案本の英題である。映画冒頭のテロップにも登場するプロメテウスは、人間と神を区別する役割をみずから担い、盗んだ火を人類に与えた。彼の欲を見透かしていたゼウスの警告通り、火を与えられて技術発展した人類は戦争をはじめた。『オッペンハイマー』におけるゼウスには「結果」に関する忠告を放ったアインシュタインが位置するだろう。

 スーパーヒーローオリジンのようにはじまる『オッペンハイマー』は、英雄譚ではない。知恵を求めるうちに世界を変えてしまった者の取り返せぬ過ちの物語である。知を追求してしまったオッペンハイマーによって核爆弾を与えられた人類は、世界を滅亡させる力を手に入れながら、争いを止めることはなかった。この映画が水の波紋を見つめる主人公ではじまって終わるのは「結果」のつらなりの暗喩でもあるだろう。波紋はやがて、地球を滅ぼす核戦争の炎へと変わっていく。主人公の主観をとおして映画が映した「遅れて到来する結果」がいつ来るのか。それは2024年の今もわからない。

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