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青春映画としての『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

 ジョン・ワッツ監督のMCUスパイダーマンは「少年から青年への成長」を描きながら、いわゆるZ世代ニューヨーカーが生きる世相が意識された青春映画として好きだった。『ホームカミング』『ファーフロームホーム』についてもちょろっと書いたりしている。

 で、三部作をしめくくる『ノーウェイホーム』。今回はハイボリュームお祭り映画でもあるので、前二作ほど「ティーンたちのアメリカ青春映画」の世界観はない。でも、旧シリーズと接続するメガ大作ゆえに「MCUスパイディ」について考えさせられる箇所は沢山あったし、振り返れば、スーパーヒーロー版ティーンドラマの総決算だったのかもしれない。

※以下ネタバレ

情報化社会に生きるティーンたちへの教育映画みたいだった『ファーフロームホーム』直後、トムホ版ピーターの重圧はさらにハードに。人気キャラクターだったタブロイド編集長、ジェイムソンも、2016年大統領選挙以降の暴君メディア人像になっている。しかしながら、ドラえもん的な危うい世界改変を頼むきっかけが「友達の大学受験」であるあたり、しっかりと青春ドラマらしい。

 しかしながら、相変わらずトムホピーターのまわりの先輩ヒーローは養育者/保護者に向かなげ。アイアンマンは不安定かつ良くも悪くも奇想天外だったし、今回のドクターストレンジはきちんと話を聞たり相談をしない奇想天外である。

 そしてやってくる旧ヴィランたち。このへんかなり新世代たるMCUスパイディの特徴があらわれていて、たとえばノーマン・オズボーンは「心身にケアが必要な人」と配慮される立場になっている(それはそう)。ヴィランに情を示すのがスパイダーマンといえ、メンタルヘルスとかケアっぽい目線が自然に出てくるあたり今の世代らしい。

(『6才のボクが、大人になるまで。』劇中シーン)

 で、タイトルの「ノーウェイホーム(家に帰れない、帰る方法がない)」には様々な意味があると伝わってくる。まず、還る場所を失っている旧ヴィランたち。そして、大学進学で親元から巣立つ時期となったピーターたち……ティーンドラマとして見るなら、これは、スーパーヒーロー版の過酷な「親離れ」映画である。原題"Boyhood"な『6才のボクが、大人になるまで。』然り「大学に受かって、実家から出て、学生寮やシェアハウスに移るティーン」というのは米国青春映画の定番であり、成長の通過儀礼的な記号でもある。そして、今回大学進学を目前にしたトムホピーターは、ついに「大いなる力には大いなる責任が伴う」と諭され、養育者、つまり親だったメイおばさんを失う。

 ここで「トムホのまわりに真っ当な先輩ヒーローいない」問題がマジカルな転換を見せる。窮地に陥ったトムホピーターを先輩ヒーローとして支えるのは、旧シリーズのピーターたちなのだ。中盤、トムホピーターは旧ヴィランたちを助けるため、運命を変えるために'fix'という言葉を使う。しかし、先輩たるトビー版ピーターは'cure'と言う。字幕翻訳が難しかっただろうけど、'cure'のほうが、癒やしとか治療のニュアンスが強いはずで、現代英語版・新約聖書のルカによる福音書にも出てくる。「王があなたを殺そうとしている、逃げてください」と伝えられたイエス・キリストの返答である。

イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。
「イエスの嘆き」(ルカによる福音書13章31-35節) - 光が丘キリスト教会

 もしかしたから'cure'と発したからこそ、トビー版ピーターが「青年牧師みたいだ」と言われるのかもしれない。'cure'そのものが教会とかスピリチュアルチャージに使われやすい印象。

 そして、先輩ヒーローたちと助け合ったトムホピーターは、自ら「ノーウェイホーム」を選択し、自分の存在(の記憶)を世界から消す。ストレンジに魔法を頼んだとき「この人たちは忘れさせないで」と懇願した恋人、親友、親の三者全員、彼を忘れたか、彼の運命のもと殺されたかになってしまった。そして、このうち生きてる二人は、ニューヨークを離れてマサチューセッツ州のMITへ行く。

 実は、さきほど引用したルカによる福音書は、このようにつづく。

だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。
預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
「イエスの嘆き」(ルカによる福音書13章31-35節) - 光が丘キリスト教会

 MJ、ネッドと別れても「自分の道を進まねばならない」少年は、ニューヨーク「以外の所で死ぬことはありえない」かのように、独りでヒーロー活動を行いつづける。先輩二人が強調していた「あまり宣伝しない孤高なスパイディ」像は、Hypeな状況に置かれたアベンジャーズたるトムホ版スパイディとは真逆だった。でも、この三部作の終点で、彼もまた「親愛なる隣人で在るために己の隣人のもとから去る孤独なヒーロー」に着地した。つまり、MCU三部作は、三連作で「スパイダーマン・オリジン」だったことがわかる。トム・ホランド版ピーター・パーカーは「親離れ」を内包する「精神的故郷(HOME)離れ」を果たして、ついに少年から青年になったのである。

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