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雑記(六八)

 塚本邦雄の歌集『天變の書』に、「夏三日月子を金銀にたぐへたる歌ありきゆめうたはざらむ」という歌が収められている(『塚本邦雄全集第二巻』ゆまに書房)。初句は「なつみかづき」と読んでよいものだろうか。夏の三日月よ、子どもを金銀になぞらえた歌があったが、私は決してそんな歌はうたうまい、というほどの意味であろう。

 ここに言う「子を金銀にたぐへたる歌」というのは、『万葉集』巻五の山上憶良の「思子等歌」の反歌一首、「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」(八〇三)のこととおぼしい。銀も金も玉もどうということはない、やはり宝物としては子どもに及ぶものはないのだなあ、という。塚本はこれを念頭に、こんな歌は決して詠むまい、と決意して見せている。

 塚本邦雄の歌集を読むかぎりでは、この歌人が『万葉集』に特にこだわっていた様子は見えないが、第十二歌集『天變の書』に続く第十三歌集『歌人』には、「紺の嵐絲杉の梢よりいたる大津皇子の死後も奔る脚」の一首がある。「梢」には「うれ」のルビがある。「大津皇子」は「おおつのみこ」と読むべきだろう。「紺の嵐」とは、「青嵐」の濃密なものと解することができようか。山から吹く強い風が糸杉の梢からやって来る、大津皇子の死後も走りつづける脚よ、というのが一首の意であろう。

 大津皇子は天武天皇の皇子の一人で、天武の崩御後の朱鳥元(六八六)年十月に謀反が発覚し、翌日に刑死している。『万葉集』には、このときの大津皇子の歌「百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(巻三・四一六)が収められている。また『日本書紀』持統称制前紀は、その死について、「庚午に、皇子大津を訳語田(をさた)の舎(いへ)に賜死(みまからし)む。時に年二十四なり。妃皇女山辺、被髪(かみをみだ)し徒跣(すあし)にして、奔赴(はしりゆ)きて殉(ともにみまか)る。見る者皆歔欷(すすりな)く」と記す。塚本の「大津皇子の死後も奔る脚」は、ここに言われる山辺皇女の殉死の際の様子を踏まえていると見てよい。

 この「紺の嵐」の直後に置かれるのが、「杉の梢星を放てり人にあるわれやこの世に何を放たむ」。この「梢」も「うれ」と読むべきであろう。杉の木の梢は星を放った、人である私はこの世に何を放つのであろうか、という。この歌の「人にあるわれや」は『万葉集』の大伯皇女の歌「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を弟世と吾が見む」(巻二・一六五)を踏まえていよう。大津皇子と大伯皇女は異母姉弟で、大津の死後に大伯皇女が、この世の人である私は、明日からは二上山を弟として見ることになるのだろうか、と嘆いている歌である。

 いま見た「紺の嵐」と「杉の梢」を収める三十三首連作「杏仁傳説」には、他には大津皇子や万葉歌を連想させる歌はないようだ。ただ家族、兄弟の関係が一つの主題であることはうかがえるようであって、大津皇子の物語がそこに挿入されている格好である。

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