『サーチ/search』の平面と現実

映画館のスクリーンは、一枚の布に過ぎなかった。しかしそこに変幻自在のめくるめく映像がうつし出され、観客はひととき、時空を超える体験ができる。一枚の布が観客を酔わせるという、まさにそのことのゆえに、映画館のスクリーンは魔術的な魅力を持っていたのだろう。『書を捨てよ町へ出よう』(71)の冒頭で、映画館の暗闇のなかでじっとしていたって、何も始まらないよ、と青年はこちらに向けて挑発的に語りかける。たしかに座席を立って再び雑踏の中に一歩をすすめれば、一本の映画などは一炊の夢にひとしい。もとのままの日常の平坦の上で、実は何も始まってはいなかったのだと気づかされる。こんな詐術のような効果も、一枚の布の軽さ、薄さは象徴する。映画公開に抗議するべくスクリーンを切り裂いたところで、映画の骨はおろか、肉を切ることもできないのである。めくれた布の向こう側に、ただ闇がひろがるばかりだろう。

しかし、かように軽くて薄い平面の上に視線を滑らせながら、観る者たちは映像を立体的なものとして感受し、こちら側とは異なるもうひとつの世界を向こう側に仮構して楽しむことができる。そしてその、幻視をもたらす力をそなえた奇妙な平面が人間を支配する程度は、ますます高まっているように思われる。パソコンやタブレット、スマートフォンの画面を見ながら、私ははじめて向かう目的地への道順をたしかめ、日記をつけ、遠く離れた場所にいる友人にメッセージを送信し、会ったこともない人々の歌声や肢態に注目する。すべては平面上のひとつひとつの画素の変化によってもたらされる情報である。それなしに生活を送ることが、どんどん困難になっていることはたしかだろう。

映画『サーチ/search』は、そのような平面の魔力が、現実とは異なるもうひとつの世界を仮構することだけではあきたらず、いつのまにか現実世界を包摂しようとさえしていることを見せつける一本だった。幼い一人娘とその両親の三人は幸せそうに暮らしていたが、母のパメラ・ナム・キム(サラ・ソーン)の病気が発覚し、回復に向けた家族の協力もむなしく、父のデイビッド(ジョン・チョー)と娘のマーゴット(ミシェル・ラー)をのこしてパメラは世を去ってしまう。多年にわたるその経過は、ホームビデオの映像や治療法について調べる際の検索画面、家族のスケジュール管理画面などによって説明されてゆく。すべてが機器の画面上に表示される文字、図、画像、動画で説明されてゆくのは、驚くべきことだ。高校生になったマーゴットが行方不明になり、警察の協力を得ながら真相の究明に奔走するデイビッドの格闘が、映画の主軸となる。

スケジュール管理画面上の、パメラの退院と帰宅の予定日が次々に延期され、ついには削除されてしまうことによてその死を暗示する演出は切ない。文字を打ちかけては削除する手つき、カーソルの動きに現れるためらいの演技も、その読み解きには情報機器の使用経験と高度な習熟を要するようには思われるが、新鮮な効果をあげていると言うべきだろう。送受信されたメッセージの表示画面で、相手が未送信のメッセージをテキストを編集していることを示して明滅する記号の有無を注視してしまう心理などは、その繊細な緊張感の点で同時代ならではのものであろうし、発せられたメッセージに即座に反応するという瞬発性よりも前に、未送信のメッセージのことさえ気になってしまうという偏執的な切迫感を可視化しえている。

複数名のメッセージが文字として表示されることで人物たちの感情の転々を見せる手法は、たとえば松居大悟監督の『ワンダフルワールドエンド』(15)や『私たちのハァハァ』(15)においても意識的に用いられていた。しかしそれらの画面が、人物たちそれぞれの眼を離れた視点から客観的に場面を見わたすまなざしの中に置かれ、その場の感触を多面的に伝えていた方法は、本作の試みとは異質である。画面に表示される情報の前提に、あるいはその背後に存在する生の心身の実体もまた客観的に見つめることのむなしい、個々人によって異なるかたちで受信されるほかない情報としてのみそこにあるのではないか、と映画は問うているのである。そのとき、情報機器の画面上の表示のみによって事件の顛末を語る、というこの映画の特殊性は、観点の偏向や一面性からくる平板や無味乾燥を意味しない。画面にあらわれる操作の手つきは、画面の前の一人にしか見られるはずのない感触を伝えて、かえって多弁に見える。

行方知れずになったマーゴットを探して、娘の交友関係、嗜好、経済状況を調べてゆくうちに、父の目からは見えていなかった娘の姿が見えはじめる。通っていたはずのピアノ教室を辞めていたことなどは序の口で、学校の教室内での孤立や悪そうな仲間との交友、さらには父自身の弟のピーター(ジョセフ・リー)との関係にも疑念が持たれてゆく。断片的な情報がすさまじい速度で往来するネット上の空間においては、善意も悪意もその衝撃力を増幅させて父の身にふりかかる。情報の流通による熱狂や憎悪の加速という意味では、『ソーシャル・ネットワーク』(10)や『白ゆき姫殺人事件』(14)における描写が鮮やかだったし、『ザ・サークル』(17)の恐怖も記憶に新しい。本作もまたそのおぞましさを十全に描きながら、それに脅かされ、傷つけられる現実の心身もまた、画面上の情報に集約され、還元されることを示した点が特異である。娘の所在を知っているかのようなメッセージを発信した青年に映画館のロビーでつかみかかるキムの姿をおさめた動画は瞬時に拡散されてゆくのだが、それを見たキムの悩ましげな表情もまた、パソコンの画面上に表示されることによってのみ観客に伝えられるのだ。

このように考えたとき、映画をうつし出すスクリーンに代表されるような平面は、光線の色彩や音響の効果によって観る者の幻視を誘引するのみの空疎なものではない意味を持ちはじめる。情報を発信することも、受信することも、すべて画面の上の出来事として見られる状態になり、そしてそれのみで物語の進行が十分に可能なのだとしたら、映画が観客に対して告げているのは、映されていないものを察知せよ、想像せよという指示ではない。むしろ、ここに映されているものは現実であると信じられているもののすべてだ、という誇示と、観客はそのすべてを見たつもりになっているということへの逆襲を、映画は企図している。映像は現実の一部を切り取るのでもなければ、映像が現実に向けて何かを訴える、というのでもない。映像にあらわれる情報の全体こそが現実なのだ、という立言である。

娘の友人の連絡先を知るために亡き妻のパソコンを立ちあげたり、娘のメールアカウントに侵入したりするデイビッドの手つきはすばやい。パスワードの入力を求められ、わからないからパスワードを紛失した際の手続きを申請し、別のメールアカウントに届いた再登録用のパスコードで新たなパスワードを作る。この方法なら、ひとつのアカウントのパスワードさえ入手できれば、そのひとが用いているメールアカウントすべてにアクセスできることになる。おそらくデイビッドは、自分のパスワードを紛失した際に、同じことをやった経験があるのだろう。そうして、膨大な量のメールアドレス、住所、電話番号などが閲覧できるようになってゆく。それはあたかも、個人の脳内に保管されている情報に直接アクセスするようなスリルを持つ。『マトリックス』(99)や『インセプション』(10)、あるいは『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(13)では特殊な装置を身につけて他者の脳内に侵入しなければならなかったのとは対照的に、デイビッドは自室の一角から指先ひとつで、妻や娘の名のもとに集積された情報の海に漕ぎ出してゆく。過去のSF的発想が思いがけず、顔を出しているのだが、それは今や誰もが目にしたことのある機器の周辺で起こっているのである。

この事態を指して、デイビッドが情報を入手している、と呼びにくいのは、多くの情報は眺められるのみであって、他人であるデイビッドはもちろん、娘や妻の当人ですらその全容を把握していたとは思えないからである。言わば外化された脳としての情報を、他者の立場からデイビッドが点検してゆくことになるのである。情報が事件解決の糸口になるのは、その情報が単なる数字や記号の羅列以上の意味を持ってデイビッドの記憶や見聞をむすびつくからだが、まさにそのゆえに、デイビッドは疑うべきひとを信じたり、信じるべきひとを疑ったりしてしまう。情報の激流が、人間の実感を愚弄し、翻弄する動きとも見ることができる。

父が娘のために奔走し、未知なるものと対峙する構図は、たとえば『96時間』(08)や『渇き。』(14)を思わせる展開であり、また微妙に性格は違えど親子の関係のなかにはさみこまれる狂気という点は『母なる証明』(09)や『八日目の蝉』(11)を想起させる質感もある。事件の真犯人とその母親の立ち位置がサスペンス的展開においては一番の鍵になるのだが、協力することになった女性警官のヴィック(デブラ・メッシング)については、デイビッドのウェブ検索ではこの警官の優秀さや誠実さを証明するのに有利な情報しか出てこない時点で、かえって怪しすぎるようではある。他の人物たちは素行が悪かったり、軽薄な面を持っていたりして、あるいはすくなくとも素性に謎を含んでいる者ばかりなのに、警官にあまりに非がなさそうなのは、やすやすと結末への見通しを許してしまう嫌いがあるだろう。雨で難航した捜査の様子をニュース映像で見せておきながら、最終的にはその雨が山中に取り残された娘にとって救いになっていたという仕掛けには膝を打つし、それに気づいたデイビッドが警察の車列をUターンさせた様子を空撮でとらえたのも心憎く感動的ではある。しかしそれでも画面構成の斬新さと見合うだけの新鮮味のある展開とは言えまい。母を亡くした父子家庭という設定も、娘の失踪がもたらす父の絶望のために都合よく働いていて、家族の情景から事件の発生、紆余曲折ののちの第二の事件から意外なかたちで大団円、という筋書きは凡庸とさえ言える。

だが、『メメント』(00)は記憶の復元と時間の遡行という構成を抜きにすればつまらぬ事件の顛末に過ぎないという指摘や、『MONDAY』(00)を時系列になおして提示すれば軽薄な喜劇に堕するという見立ては、それそのものとしては正しかろうとも、映画の評価としては意味を持つまい。凡庸な事件を非凡に描き出すことが作品の力量でないとは、到底、思われないのである。本作にも同じことは言えるだろう。画面の中にひとつの現実を包摂させる、いや、画面上の情報こそがひとつの現実そのものなのだ、というイメージをここに見せつけるためには、むしろ事件は凡庸でなければならなかった。ありふれた物語も、誰もが日々手にしているような機器を通してのみ見れば、こんなに面妖なものになっている、という証明である。『レディ・プレイヤー1』(18)が、表向きには現実の尊さを訴えていたとすれば、いや、画面上の表示のほかに現実などありはしないという立場を、映画は示している。そしてそれは、どうも確かなことのようなのである。

2018年、アニーシュ・チャガンディ監督。

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