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雑記(五九)

 酒に酔って泣くことを「ゑひなき」という。「酔ひ泣き」などと書く。大伴旅人の歌に、「賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし」とある(『万葉集』巻三・三四一)。利口ぶって物を言うより、酒に酔って泣くことこそがすぐれているようだ、という意味である。

 また旅人は、「世の中の遊びの道にすずしきは酔ひ泣きするにあるべかるらし」(三四七)、「黙をりて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ若かずけり」(三五〇)ともうたっていて、世間の遊びの道で爽快なのは酒を飲んで泣くことにあるらしい、黙って利口ぶっていることは酒を飲んで酔って泣くことには及ばないのだ、ともいう。「黙をりて」は「もだをりて」と読む。

 三四一番歌では、「賢しみと物言ふ」、すなわち利口ぶって物を言うことが「酔ひ泣き」と対比され、三五〇番歌では「黙をりて賢しらする」、つまり黙って利口な様子をしてみせることが、「酔ひ泣き」と対比されている。饒舌に言葉を並べるか、沈黙を保つかして、何もかもわかったような態度を示すことの対極に、「酔ひ泣き」という行動があるらしい。

 ここで「酔ひ泣き」は、「まさりたるらし」とか「すずしき」とか「なほ若かずけり」とかの言葉によって、好ましいものとして扱われている。だがそれは、誰にとってのことなのだろうか。

 もちろん、まずは酒を飲む当人が、理屈をこねたり黙ったりするよりも、「酔ひ泣き」をするほうが気持ちがよい、ということだろう。しかし、周囲の人々にとって、理屈をこねられたり黙ったりされるよりも、「酔ひ泣き」してもらったほうがいい、ということも、ここには含まれているのではないか。

「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る」(三四四)は、ああ見苦しい、利口ぶって酒を飲まない人をよく見ると猿に似ている、と、真面目くさって酒も飲まない男を揶揄する調子だ。このように、ある男の、酒に対する態度を、言わば外側から品評するような趣が、すでに見たような「酔ひ泣き」の歌にも認められるのではないか。「酔ひ泣き」でもしてくれたほうが周りもありがたいよ、というような。

 和泉式部に、「ともかくも言はばなべてになりぬべし音に泣きてこそ見せまほしけれ」という歌がある(『和泉式部集』一六二)。ああだこうだと言葉にして言うと、ありふれたことになってしまうだろう、ただ声をあげて泣いて見せたいものだ、という。「ともかくも言ふ」、つまりあれこれと言葉を集めて思いを述べることによって、私の思いは、通りいっぺんの、ありきたりのことのようになってしまう、と言われている。本来は、そんなことではないはずなのに。

 ここに、言語の限界に対する和泉式部の鋭い感覚を見ることもできるし、また、自分の抱えている憂悶は、そのあたりの女どものそれとはまるで違うのだという、気位の高さを見ることもできるのだろう。しかし同時に、声をあげて泣くということの雄弁さを訴えようとする作者の思いも、透けて見えるように思うのである。泣くことこそが、それに相対するものに何かを伝えうるということを、旅人も和泉式部も、知っていたのではなかろうか。


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