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雑記(六三)

 このところ、「コロナが終わったら」とか、「コロナが落ちついたら」という言い回しに、実感が持てなくなってきた。大人数の参加する会合や講演は、オンラインで実施されるか、オンラインでも参加できるようにするのが当然になってきている。

 わざわざ、家を出て、歩いて、電車に乗って、食事や水分を確保して、それらにかかる時間を見越して行動しなければならなかったのが、せいぜい、身だしなみを整えて、端末の電源を入れて、設定された通りにアクセスすればいいだけになるのならば、そのほうが楽なのは確実で、逆に、これからオンラインを廃してゆくのは大変だろう。

 しかし、オンラインの技術がどんなに発展しても、同じ室内で同じ時間を過ごす経験と、等価に感じられる経験を提供するのは難しいに違いない。それは、すぐそこに自分ではない誰かがいて、もしその誰かのいる位置と自分の位置が入れかわったとしたら、そのとき、自分はその誰かの立場でどのように状況を把握するか、という想像を持つことが、オンラインでは困難だからである。同じ空間に身体を置いていれば、それは比較的に、たやすいだろう。

 つまり、何もかもオンラインでいいのか、と問うことは、誰かの身体と自分の身体が、お互いの存在をはっきり感じられるほどに近い場所にあるということの価値を問うことである。あらゆる会合や社交の場をオンライン上に設定して、それらを対面で実施したときの同じ経験を得させることは、互いの身体を感覚させることなしには、不可能だというべきであろう。

 三浦雅士は『考える身体』(河出文庫)の「はじめに 芸術の身体」の冒頭で、こう書いていた。「今は昔のことになってしまうが、一九六〇年代、学生運動が盛んだったころ、新入生を学生運動に巻き込むには理屈はいらない、デモに連れていけばいいとよく言われていた。泳ぎを覚えさせるには水に放り込めばいいというのに似ているが、実際、これは効果があった。街頭に出て手をつなぎ、スクラムを組んで機動隊の盾の前に立つというスリリングな体験をしただけで、党派意識を持ってしまうのである」。

 三浦はおそらく、六十年代の学生運動には批判的である。自身がデモに参加して機動隊の前に押し出されてしまったときのことを『孤独の発明』(講談社)に書いていたが、『青春の終焉』(講談社)では、大学の解体を論じた廣松渉の文章を引いて、こう述べていた。「大学を解体しようとするなら、教師は大学を辞めればいい。学生は大学へ行かなければいい。それこそ根源的な解体ではないか、などという半畳を入れようとは思わない」。これは、ここではその方向に話をすすめはしないというだけで、大学の解体を主張した学生の運動に矛盾を感じていたこと自体は、争えない。「半畳」は、入れようと思えば入れられたのである。

『考える身体』の、先の引用に続く箇所には、こうある。「どちらの側に立つべきか、身体が決めてしまう。連帯という言葉が当時は盛んに用いられたが、この言葉も、よく考えてみると、思想にかかわるよりもむしろ身体にかかわっている。帯状に連なることはできるのは、頭脳ではなく身体なのである」。

 帯のように連なる、前後、左右の位置関係を明確にしてある空間を占めるということは、たしかに身体なくしては、できない。その意味では、特定の主張を掲げた運動が発生し、支持を集めることが、困難な状況になってきているということなのであろう。それは、大きな権力を持っている側にとって、まことに都合のよい状況だと言えそうだ。

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