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雑記(六〇)

 日本の人々は、百年前、五十年前、三十年前に比べて、よく話すようになったらしい。ひとりで、ある程度の時間をかけて、まとまった話をすることができるようになったらしいのである。逆に言えば、それまでの日本の人々は、それがほとんどできなかった。

 柳田国男は、「涕泣史談」という文章のなかで「今日の有識人に省みられて居らぬ事実は色々有る中に、特に大切だと思はれる一つは、泣くといふことが一種の表現手段であったのを、忘れかゝつて居るといふことである。言葉を使ふよりももつと簡明且つ適切に、自己を表示する方法として、是が用ゐられて居たのだといふことは、学者が却つて気づかずに居るのではないかと思はれる」と書いている。それに対して、「現今は言語の効用がやゝ不当と思はれる程度にまで、重視せられて居る時代」だという(『柳田國男全集』第十九巻、筑摩書房)。

 ここで柳田が念頭に置いているのは、最近五十年ほどの変遷である。この文章のもとになったのは、一九四〇年の国民学術協会での講演で、柳田は一八七五年の生まれだから、このとき六十代の半ばで、十代半ばの頃からの記憶をたよりに語っている。

 そしてその時点で、「言葉さへあれば、人生のすべての用は足るといふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になった」のだという。さらに、これに続く部分がやや衝撃的だ。「もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終った人間が、総国民の九割以上も居て、今日謂ふ所の無口とは丸で程度を異にして居た。それに比べると当世は全部がおしやべりと謂つてもよいのである」。

 丸谷才一は『桜もさよならも日本語』(新潮文庫)で、「戦後三十年にして情勢は大きく変り、日本人の言語能力は飛躍的に向上した」という。「第一に、家庭では話し合ひといふ原則が言ひ立てられるやうになつた。そして改まつた席でもよくしやべるやうになつた。学校のホーム・ルーム、労働組合の総会、企業その他の会議などでみんなが発言するやうになつたし、通行人はテレビのアナウンサーから街頭でマイクを差出されてもたぢろがずに答へるやうになつたし、テレビやラジオの視聴者参加番組に出た普通の市民は平気で意見を述べたり冗談を飛ばしたりするやうになつた。その発言の内容や趣味がどの程度かはともかく、何とかものを言へる大衆が、ふと気がついてみると出現してゐたのである」。

 丸谷の著書が出たのは一九八六年、戦後四十年を過ぎた頃である。右に引いた部分の後で、「是は戦前の日本人と比較すれば非常な変化だらう」と述べて、柳田の「涕泣史談」に触れるのである。「柳田国男は昭和十六年におこなつた『涕泣史談』といふ講演のなかで、近頃はみんなおしやべりになつた、昔は百語とつづけた話を生涯一度もしなかつた人が全国民の九割以上もゐて、それは今日のいはゆる無口とはまるで違つてゐた、と述べてゐる。これは見当ないし実感で言つてゐるわけで、統計などあるはずがないけれど、大正末年に東北の小さな城下町で生れたわたしには、昭和初年の東北風俗からの類推で、たしかにさうだつたらうなといふ気がする」。

 気になるのは、丸谷が柳田の講演を「昭和十六年におこなつた」と書いているところだ。『柳田國男全集』十九巻によると、「涕泣史談」は「昭和十五年八月、国民学術協会講演」とある。一年の差は、どうして生じたのだろう。

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