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雑記(六一)

 京都大学の構内で学生たちが火炎瓶を製造し、ヘルメットを装着して角材を抱えて、行進の練習をする。研究室では煙草を片手に議論に耽り、革命の方針をめぐって激しく議論する。そうかと思えば、布団にくるまってじゃれあうこともある。アテネ・フランセ文化センターで映画『パルチザン前史』を観て、過激でありながら、しかし牧歌的な光景にいくつも出会った。

 チラシによると、監督は土本典昭、小川紳介の小川プロダクションが一九六九年に製作した。撮影は大津幸四郎、一之瀬正史、白黒で百二十分。「関西全共闘の中心人物であった京大助手・滝田修が率いる「パルチザン五人組」の活動に迫る。大学構内で白昼行われる「軍事訓練」や、バリケード封鎖された百万遍交差点での機動隊との市街戦、そのさなか火炎瓶によって夕闇に燃え上がる車体の光景は、今なお衝撃的。土本のスタイル上の転機を画したダイレクトシネマ的傑作」とある。

 ところで、柳田国男は一九四〇年の講演で、過去五十年ほどのことをふり返りながら、かつては「泣くといふことが一種の表現手段であつた」、「殊に日本人は眼の色や顔の動きで、可なり微細な心のうちを、表出する能力を具へて居る」と述べている(「涕泣史談」)。それに比べて、「言語の万能を信ずる気風が、今は少しばかり強過ぎるやうである」ともいう。

『パルチザン前史』の滝田修の様子を見ていると、今から五十年ほど前と現在とを比較しても、同じようなことが言えるのではないかと思える。滝田は教壇で、研究室で、とめどなく言葉を発しはするのだが、とてもその内容は論理的に筋が通っているとは言えない。登場する言葉と言葉の関係が、今ひとつ明らかでないままに、話は次へ次へと移ってゆくようで、現在の二十代前後の人々のほうが、うまく話ができるのではないかと思うのである。

 川本三郎の『マイ・バック・ページ』(河出書房新社)には、「土本典昭監督が彼を主人公に作ったドキュメンタリー『パルチザン前史』が当時評判を呼び、滝田修は新左翼の有名人だった」とある。「朝日ジャーナル」の記者だった川本は、先輩にあたる「N記者」を通じて滝田と知りあい、会うことになった。

「硬派の活動家というイメージが強かったので会う前は少し緊張したが、会ってみると思った以上に気さくな人間だった。東大全共闘の山本義隆が学者タイプだとすれば滝田修は豪傑タイプだった。よく酒を飲み、冗談をいい、酔うと蛮声放歌した。まわりに人がたくさんいる喫茶店で大声で「爆弾闘争の可能性」など論じたりするのでこちらがハラハラした。関西弁なのでよけい気さくな感じがした。私はその「理論」というより、彼の「人柄」にひかれた」。やはり滝田はさかんに話をしたらしい。

『マイ・バック・ページ』には、川本が「週刊朝日」の表紙のモデルを務めていた保倉幸恵と、一緒に映画を観たことも出ている。保倉が「『真夜中のカーボーイ』でもダスティン・ホフマンは『怖い、怖い』っていって泣いたの。憶えている?」と言うと、川本は「いや、憶えていない。泣く男なんて男じゃないよ」と返す。保倉はそれに、「そんなことないわ。私はきちんと泣ける男の人が好き」と言ったという。

 保倉の言葉も印象的だが、川本の言葉も忘れがたい。そんなことをする男は男じゃない、という言い回し自体が、過去のものになりつつあるからである。涙など見せずに、言葉で語りつづける姿こそが、好ましい男の姿だったのだ。

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