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ペリペティア

ネットで「純文学と大衆小説の狭間」-現代文学における「終わり」の比較-という記事を読んだ。前川裕さんが書いたもので、カーモードの「ペリペティア(逆転)」の解説と「豊穣の海」と「冷血」と自作(前川さんはエンタメの作家さんand大学教授!)のラストについての考察がなされている。
ペリペティアの考え方は、《「逆転」というのは、予想されている終わりとの関係において成立しているのだから、その齟齬が大きければ大きいほど、「認知」の衝撃は大きくなり、作品として優れている》というものだそうだ。
「豊穣の海」のラスト、本多が見た一切合切を聡子が全否定するところ。ここに純文学特有のオープンエンディング(読者に判断を委ねる終わり方)をみる。大衆小説には許されないオープンエンディングがあればこそ、物語性にも富むこの小説が純文学たりえるのだ、と。
逆に「冷血」の、いかにもの、2時間サスペンス並の終わり方。これは評判が悪いらしい。ナボコフとかはセンチメンタルと批判的であったようだ。
前川さんは、これらを自作にからめつつ純文学と大衆小説の「終わり方」について語るのだが、ごめんなさい、前川さんの小説を読んでないので、そこに感想は書けない。それよりもペリペティアが気になった。
ギリシア悲劇の作劇法である、ギリシア悲劇でお馴染みの「デウス・エクス・マキナ」は泉鏡花の作劇で時々お目にかかるので知ってたが、「ペリペティア」は覚えがない。これを使ってカーモードがどういう文学理論を組み立てているのかも、なんか興味出てきた。

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