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カーモードと古典

古典には、こういうものが多い。芭蕉の「奥の細道」も、杜甫やら李白やら西行やらの、勿論様々の和歌の歌枕やらのイメージが重層的に積み重なっている。多くの読みの全てが正解の読みなのである。
また、徒然草の「仁和寺にある法師」仁和寺の法師が石清水八幡宮を長年参りたいと思ってて、やっと念願かなって参ったが、末寺末社だけ参って本殿を参らなかったという笑い話。
でも、ちょっと知ってる人なら、八幡宮は武士の守神で、仁和寺は里内裏にもなるべき由緒正しい貴族の寺。なんでのこのこ貴族側の人間が、ありがたがって武士の神に参るんだ。ああ、世も末だという兼好さんのため息が聞こえて来る。分かる人にはね。
カーモードの読みとはイメージとしてこういうものかと思う。兼好さんが、たとえ仁和寺と八幡宮の格式を意識せず、単なる笑い話として書いたとしても、後者の読みの解釈も成立すると言っているのではあるまいか。これは、題材を読者が好き勝手に解釈して読んでいるのではない。鎌倉後期の武士と貴族のありようを知識として心得ている者の読みである。だから、この読みも正解なのである。「秘義の発生」(カーモードの主著の題名)はそうして起こる。

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