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RST


ハーシュのことを調べてて、面白いことを見つけた。ハーシュが大学で学生に読解力のテストをしたところ、勿論、読解力がなければ理解力は得られないのだか、真の理解力を得るためには、社会的文化的背景が必要であることを発見した、というのだ。
昨今、日本の学校の教育現場ではRST(リーディング・スキル・テスト)なるものが流行っていて、しばしばニュースでもとりあげられる。子供に読解力がない。教科書さえまともに読めない、というわけである。じゃ、どうすればいいか、これがよく分からない。テレビでは、子供たちに話し合いなどさせて、自分たちの考えなど発表させていたが、それが読解力とどうつながるのか分からない。子供が文章を理解できないのは、読もうとしないからではない。読んでも意味がわからないからだ。話し合い発表はなるほど、文章に能動的に関わろうという姿勢は育てるが、話し合いをリードするのは、すでに読めている子である。読めない子は字が読めない、言葉が分からない者もいるが、問題とすべきは、言葉を読めても、文を読めても、理解できない子をどうするかだ。彼らに足りないのは、社会的文化的常識である。

ハーシュはそのことに気づき、読解には「文化的リテラシー」が必要だと提唱し、「文化リテラシー辞典」とか、年代に見合ったリテラシーの教科書など作ったらしい。
これが進歩的教育学者から激しく攻撃されるのだが、私はどう考えてもハーシュが正しいように思えて仕方ない。社会的文化的的常識がなければ、文章は読めない。日本に戦争文学はたくさんあるが、第二次世界大戦で日本がどこと戦ったかさえ知らない人間にそれを読ませても、理解は期待できない。
作者が反戦なら反戦の意図をもって小説を書いても、読者には伝わらない。作者に作品を書く意図はある。それを無視して好き勝手に読んではいけないし、それは正しい読みではない。作者の意図を読み取ることは大事で、それなしに読者だけが特権的に作品を解釈してはいけない。読者は作者の意図を読み取るだけの文化リテラシーが必要なのだ。
とりあえずは、ここまで。文芸批評の勉強は、解釈論、ガダマーの読者論へと移っていくが、もう少し、ハーシュにこだわってみたい。

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