なろうについてのラフスケッチ2

ちょうどTwitterで書いた話題から取り上げる。

大半の作品には、経済開発の初期の夢への憧れやその参加の渇望があると言ったわけだが、これは大別して、貴族などの統治者か、冒険者か、商人かに分かれる。貴族などは内政や開発しやすく、実行し税収や承認を得ることで別の話にもつながっていく(王との謁見、領主との会見、手柄によって叙爵して新たな領主となるetc.)。恩恵の範囲は自分の家や主従関係にある周辺、領民まで含む。他方で冒険者の場合、自分の仲間(PT)と友人で利益と恩恵は止まる。第3の選択肢である商人になる場合は、恩恵の範囲は事業関係者にまで広がっていく。


有名どころの作品を振り分けると、『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』などの悪役令嬢ものは一般に貴族。『八男って、それはないでしょう!』(以下、八男)は貴族かつ冒険者。『私、能力は平均値でって言ったよね!』は同じく貴族かつ冒険者だがほとんど冒険者枠で進む。『無職転生』は二つ兼任する。元貴族の騎士の子として生まれ、貴族の家で働き、冒険者になり、最後は事業者(≒商人)となる。『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』(以下、デスマ狂想曲)は三つを兼任する。冒険者から始まり、手柄から叙爵されて貴族となり、また途中で別名義を使って事業主となって奴隷を雇用する。『本好きの下克上』はゲーム要素を入れないことでシリアスさを維持するため、冒険者が存在しない。平民から平民事業者になり、その後貴族の養子となり、貴族の地位で事業を運営する。『戦国小町苦労譚』も同じように進む。


こういうふうに作品における主人公の立場は多少違うが、冒険者・貴族・商人は特に排他的関係ではない。旅をしたり魔物を倒していれば冒険者であり、家にいたり他家との社交や内政をしていれば貴族であり、商売をしていれば商人なので、冒険者かつ商人も、貴族かつ商人(領地の産業を自ら率いる)も可能だ。『神達に拾われた男』『ファンタジーをほとんど知らない女子高生による異世界転移生活』は冒険者かつ商人をやっている。デスマ狂想曲もそうだが、読者を飽きさせないために行為とそのステージを複数用意しているわけだ。


経済的活動は貴族の内政行為にかぎらない。『この素晴らしき世界に祝福を!』のカズマが爆発ポーションからダイナマイトを作るように、冒険者はしばしば発明家を兼ねる。発明の結果、片手間に売買もしている(商人)程度に留める作品も多く、そういった発明のエートスに着目する必要がある。内政であれば、扱う項目が多岐にわたるが、その一つに土木への情熱がある(整地・舗装・都市計画・上下水道整備)。これは読者が作者が世代的に参加できなかったバブルに起きたことではなくむしろ1950-60年代日本の戦後国土開発や団地造成区計画の方が似ている。ただし、鉄道網や大規模な産業化、発明で成金になるといった要素群を考慮するとき19世紀後半のアメリカが部分的に重なり始める。


貴族・冒険者・商人と大別したわけだが、この三つともがアントレプレナーの性格、つまり広義の起業家精神を帯びている。タイプやリアリティの度合いは作品ごとに変化するとはいえ、事業性の観点から再定義された職業となっている(作中の一神教関係者がしばしば執拗に揶揄されるのも事業性との相性の悪さから考えることができる)。そこで揃えられている行為のセットリストが組み合わされていく。道具や料理を作る、売る、好評を得る、新たな知人を得る、請われて依頼を受けて討伐や仕事をする、道具を使って利便性を発揮する、快適な寝具で好評を得る、売る、遠出をして観光する、物を買う、などなどの行為のシークエンスが生成される。貴族であれば、社交で成功する、農地を開墾する、鉱山を開く、水車を作る、ポンプを普及させる、調味料を開発する、孤児救済をする、教育機関を整備する、道路を舗装する、他国や他地域を見聞する、などなどが加わる。こうした行為のサイクルをぐるぐると回して作品が生成される


サイクルを回していることで生成されることがなろう作品の大半を特徴づけている。メディアミックスされた作品やその反応ではチート&ハーレムと無双のイメージになりがちだが、「迷宮探索、魔物討伐、帰還して褒められる」「素材採取、現代的料理、美味だと絶賛される」「現代技術で開発、利便性で圧倒、好評を得る」などの行為ごとのサイクルがあり、それを順次展開することで話の筋を確保する。登場人物はそのリアクションを配されるので、人物を描くことが苦手でもこの形式のテンプレートを下敷きにすれば苦労も減る。こうした快適なサイクルを回し続けるためにゲーム要素が参照されるというわけだ。また、ゲームを参照することでPTメンバーと共同行動の型が得られる。行動開始、障害の発生、連携、解決、結果と承認、そして次のミッション……とここでも形式の助けがある。これらの結果、または人気を得るために願望充足性が追及され、一種ポルノ的なものとなる。そのうちの一つとして性愛要素が入るが、必ずしも入らない。

レベリング、ゲームプレイメモ的なもの
行為のサイクルを回し続けるのは、時間の進行とナラティブを一致させる必要があるからだ。最初に未来時点で回想から入り、それから過去の場面を語り始めるといった技巧はなろうでは忌避される。そうして行為とその結果、そして新たな行為調整、というレーシングゲームを何度も周回するような作業ゲー感が、なろう作品を読むとき(そしておそらくなろう作家が執筆するときにも)起きる。人が小説だとみなさないような作業ゲー路線の達成に当たるのが『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』だ。無職転生の作者が昔インタビューで答えて言っているが(「『無職転生 異世界行ったら本気出す』理不尽な孫の手氏インタビュー」、『敷居の部屋の最前線』敷居亭、2013)、この作品を苦に思わず読めるならWEB小説を読む適性があると。なろうをある程度読んだ立場からはこれはよくわかる話で、この作品は、普通の意味では話が無い。主人公はレベルを上げて、スキル構成を細かく細かく変えてその結果から分析し、新たなスキルに挑戦し、新たなPTメンバーのスキルや組み合わせを試し、ダンジョンの次の階に進み、また前の階に戻りステータスの変化を確かめ……と延々続く。しかし、特殊にフラットな文体と大筋にはレベリングしかしていないことによって、クソジャンル性の異様な精華となっている。「なろう固有の文章のうまさ」のサンプルとしてわかりやすいので、人に勧めて反応をみたところ、なかなか鋭い意見をもらったことがある。いわく「プログラムのソースコードと実行ファイルの質がほぼ一緒みたいな」文章だと。また、『この世界がゲームだと俺だけが知っている』は、ゲームのバグ技・裏技の類を作中世界で実演することでリアリティが分裂することをコメディに仕立て上げた作品だと言えるだろう。


通常の意味での文章がそこにはもはやなく、ゲーム攻略日記のような何かになっている。書かれていることや視点人物が思考していること以外の世界の厚みが一切存在しないような手触りであり、ほとんど虚無であるような希薄さがある。だからこそハマる人はハマる。

ステータス可視化と本文の地位変化
『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』の場合はレベリングとバトルでサイクルを作っているが、ステータスが可視化される作品では、増え続けるスキルやステータス、数字などが頻繁に各話末尾に並べられ、おもちゃを改造し続けている擬似体験が喚起される。作品におけるステータス可視化の持つ意味合いは若干異なるが、『転生したらスライムだった件』(転スラ)、『転生したら剣でした』、『まのわ ~魔物倒す・能力奪う・私強くなる~』、『四度目は嫌な死属性魔術師』では話数の末尾や本文中にステータス一覧がずらずらと記載されることが珍しくない。スキル発動時には作中でスキルを発語し、地の文がそれを受け止めるわけだがこのセリフと地の文の二層性が描写の簡略化をももたらす。発動後は、地の文でそれがもたらした変化を書けばいいので、場面進行をサクサク進められるわけだ。こうして、スキルとその発動は台詞と地の文を様変わりさせてしまうため、地の文のもつ比重もかなり低くなる。モノローグと台詞に対して最小限の補助的説明を果たすほどに役割を減らしている作品も珍しくはない。そこにあるのはステータスログやステータス記述文の出力形態、修飾としての地の文だ。ステータスやスキルはしばしば作中でキャラクターの魂そのものだとかいろいろ根拠づけられるのだが、ゲームのイディオムで書かれた魂が流れ込んでいると言えるだろう。ただしその魂の記述はゲームプレイの日記や実況動画のようなものとなっている。

物の開発・工作・メイキング
物を作る作品も多い。武器や道具、魔道具、農作物、料理、靴、ダンジョン……。上記作品でも『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』では装備品を仲間のドワーフに強化させるし、転スラでは武器を開発する。『本好きの下克上』でもゲームのアトリエシリーズのように錬金鍋をぐるぐるかき回して魔道具などアイテムを作る。『神達に拾われた男』ではスライムに食べさせるものによって異なる種族変化が起きることを利用して、さまざまなスライムを育成し鍛え上げる。メタルスライムやアシッドスライム、スカベンジャースライム、などなど。そしてスライムを使って便所掃除や洗濯屋を始める。『異世界コンサル株式会社』では靴を作り、事業を開始する(『本好きの下克上』に比べるとキャラの面白さは減退している──特にアシスタントをこなすサラの担う役目が、物知り男性と話を引き出す聞き手女性の枠に収まって残念──が、『本好きの下克上』第1部〜第2部の路線をそのまま進んだ上位互換と言ってよい)。『異世界のんびり農家』ではマインクラフト風に農作物を作る。ステータス可視化と工作を混ぜると、人のスキルを切り貼りし奪取する『カット&ペーストでこの世界を生きていく』が生まれる。こうしたメイキング作業は、現在のシミュレーションゲーム風であると同時に、模型やミニ四駆などのホビー商品、あるいはそれらと縁の深いドラえもんの工作系ふしぎ道具に通じるものがある。ジャンプ連載の漫画『Dr. STONE』はこの路線を、同じく隣接領域である科学教材のおもちゃと絡ませて成立したと言えるだろう。


工作は範囲を広げると、ダンジョンマスターものとなる。『絶対に働きたくないダンジョンマスターが惰眠を貪るまで』(以下、ダンぼる)、『魔王になったので、ダンジョン造って人外娘とほのぼのする』(以下、ダンぼの)、『社畜ダンジョンマスターの食堂経営 〜断じて史上最悪の魔王などでは無い!!〜』(以下、社畜ダンマス)、『ダンジョンマスターの資金稼ぎ』、『邪神の異世界召喚』、『私は戦うダンジョンマスター』、『やすらぎの迷宮』。客を呼んで商品を売る店舗経営と大した差はないのだが、冒険者を招き、できるだけ金を搾り取り、殺すなり旨みを与えてリピーターにする。転スラも途中でテーマパーク風にダンジョンを作って入場料をとって商売している。殺す方が旨味があったり目的に叶っている場合は、主人公自らが近接戦闘も行う(『私は戦うダンジョンマスター』)が、そうした作品は少数で、基本的にはマスタールームで大画面でも見ながら冒険者に意地悪して楽しむ作品が多く、この作業自体がゲームプレイとよく似ている。主人公一人のモノローグだと盛り上がらないためか、パートナーがつく。リアルタイムで2、3人がおしゃべりしながら冒険者を眺めてつっこみ、笑い、ふざける点ではゲーム実況動画を最も参照したジャンルなのかもしれない。座って画面見ておしゃべりするシチュはダンジョンマスターもので頻出するけれど、このジャンルは以前に比べるとフェードアウト気味。『ツンデレ悪役令嬢リーゼロッテと実況の遠藤くんと解説の小林さん』が、現代日本人がゲームに直接しゃべりかけることで作中世界に声を届けるという変化球で、その枠をうまく改造した。


ダンぼるではダンジョンコアが、ダンぼのがダンジョン付近の龍娘が、社畜ダンマスでは主人公をダンジョンマスターに仕立て上げた悪魔娘がパートナー役となっているのだが、しゃべる相手を確保した結果、ラブロマンスとしてはカップリングが成立しかかってしまい、ドラマの原動力を損なってしまっている面がある。ダンジョンは旅で移動もできないため、舞台を大きく変容することができない。これらがダンジョンものがエタりやすくなる原因でもあるのだろう。物のメイキングではホビー的擬似体験だが、ダンジョンメイキングでは、内政とテーマパークを兼ねた舞台となっている。ちょっと面白く機転のきいた意地悪主人公が映えるので、ダンぼるではダンジョン間のバトル試合がある。各ダンジョンごとの魔物でチーム戦をするわけだが、トラップありのサバゲのような趣向となっている。なお、パートナー不在のソロマスターである『私は戦うダンジョンマスター』はゲーム『影牢』を意識したと作者自身が活動報告に記している。

通常、かつてのハイファンタジーやそれをゲームにしたTRPGでは、ダンジョンは秘密そのものだった(秘密としてのダンジョンを現在うまく使っているのが漫画『ダンジョン飯』)。だが、なろうでは全要素がファンタジー作品の系譜からというよりは、ゲームシステムのインターフェイスから遡られて模造されているため、ダンジョン「を制作する」シミュレーションゲームの力が勝る傾向が目立つ。ダンジョンマスターものは全てが商売にエンコードされる世界ではあり、マネジメント能力があの手この手で試される。吉野家を舞台にした接客シミュレーションゲームがかつてあったが、なろうではゲーム風ファンタジーのなかで店舗運営の物語が書かれやすい。『異世界居酒屋のぶ』、『異世界食堂』、『ファンタジー世界でコンビニを経営したら』がそうだ(実際、ダンジョンの発覚を回避するため、社畜ダンマスでは食堂を、ダンぼるや『やすらぎの迷宮』ではダンジョン内に宿屋を経営する)。

ダンジョンマスターものでなくとも、なろう作品では鉱山や油田のように資源が湧き出る場所とされることが多い。魔物の死体は素材になるか、素材を落とすわけだが、資源は「リポップ」されるので、領地の富となり、主要産業ともなる(『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』、八男、転剣、『まのわ』、『ダンジョンマスターの資金稼ぎ』ではそう作中に明記される)。冒頭で記した無限の経済開発の夢を支える設定にもなるが、他方で、『駆除人』では魔物駆除のための行動や農地開拓のための工夫が環境破壊をもたらし、後始末に追われる顛末を執拗に描いたり、いくらでも辻褄あわせに使えるダンジョンを作中で活躍させないといった工夫が見られる。同じ作者による『魔境生活~地主は、追放された奴らを追い返したい~』は、いまやシミュレーションの対象となって手垢がついたダンジョンではなく、魔物が頻繁に発生し地形変化をしきりに繰り返すジャングルを舞台に、その地にかつてあった王国を地下の遺跡から調べ上げる話を展開することで、かつてあった秘密としてのダンジョンを新たに試みる意欲作となっている。

ここまで、レベリングやスキルの攻略的な細部の浸食、ステータスと地の文の混淆、物のメイキング、環境のシミュレーション的運用、の曲面を見てきたが、これらはすべて一定の軽さをもたらしている。スキルの行使においては身体運動の表象と描写は軽くなり、リアルに考えれば不快でストレスに満ちる戦闘も容易になる。そこには一定の麻痺も考えられるが、解放性も見出すことも可能であり、転スラの半ばTS的な愛され系主人公、『オーバーロード』のアンデッドゆえに悩まない主人公、『蜘蛛ですが、なにか?』の蜘蛛に転生した主人公の前世の学生生活を振り切ったようなバトルプレイへの没頭、『最強の黒騎士、戦闘メイドに転職しました』のTS転生によってジェンダーロールを無視する主人公、は一定の爽快感を与えているのだろう。ここには、セルフイメージを何らかのかたちで中断し、遮断し、そらすことと、何らかの作業の没頭の結合が見られる。

ただし、この解放性は、同時に残酷さと暴力への引き金にもなっている。『私は戦うダンジョンマスター』では元の世界に帰るために現地民を殺戮し続けるのだが、ほとんどサイコパス的に麻痺していく過程が描かれる。暴力性と麻痺の結合の典型は、『オーバーロード』の対王国軍の虐殺場面だ(アニメ第3期で描かれたので、反応が分かれたようだ)。この両面性が、なろう作品のノンヒューマン的な契機となる。特性、物、環境に向けられていたコントロールが主体にも敷衍された結果生じた展開だろう。いわばセルフネグレクトに由来する攻撃性が周囲に向かって放たれてしまい、無差別的な殺戮となる。露悪や報復によるざまあ展開を比較的抑制している転スラでも主人公が魔王覚醒するために似た段取りを置いている。

ラフスケッチ1で書いたのは、漫画や諸々のレジャーへの出力形態から一旦包囲したものだったので、次回のラフスケッチ3で1の話題を引き受けるのじゃ)


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