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「ケイコ目を澄ませて」

大学3年生の冬、進路や将来のことについて考えざるおえない時期になってる。先の見えない未来になんとなく絶望とかやるせなさを感じる。自分はこのままの感じが楽しいとか思ってるけどいつか社会に折り合いをつけていかなくちゃいけない。そんなことを考えている時期に観たのは「ケイコ目を澄ませて」だ。


この映画は数々の映画祭で絶賛されている16mmフィルムで撮っているというのが話題で知り、予告編を観たら、多分、自分が好きな映画だなと思った。そんな直感で好きだなと思った映画はなるべく観に行くぞということで大好きなユーロスペースで観た。

観終わったあと涙がとまらなかった。こんなに映画で泣いたのは初めてなんじゃないか。なにをどこに感動したのか自分でもわからなかった。これはもう1回だということで1ヶ月経って、観た。

さすがに、ファーストインプレッションみたく泣きはしなかったがそこにある映っているものの質感で楽しみながら、なんて幸せな時間なんだと思い感動した。そして、何に感動したのか、何となくわかってきた。

あらすじとしては、主人公のケイコは聴覚障害者でありながら、プロボクサーをし、仕事や家族の関係、環境の変化を2020年12月から2021年3月という設定で切り取った映画だ。

 何も事件とかは起きないのだ。けど、自分が聴覚障害者じゃなくても共通することがあった。それは「感情の伝え方」だ。前提として人は言葉を通して人に感情を伝えたり、思いを言う。好きな人に告白したり振ったり、これは間違いだと正解だとか。区別するために言葉はある。濱口竜介監督の「親密さ」で出てきた名セリフ「言葉は想像力を運ぶ電車です。」というのほど言葉というのは自分の身近で考える機会が多い。

けど、言葉で感情を伝えるのは難しい?自分でもよくある。言葉にできない感情というのはよく逃げだとかあるけど自分ではそんなことは無いと思う。
そんなことを考えたら、自分が思ってた通りの記事があったから引用させてもらう。

自分の感情を他人に伝えるために、人類が発明した非常に便利な道具が「言葉」である。言葉という道具はあまりにも便利すぎて、ともすれば忘れてしまいそうになるけれど、私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。自分の感情をきれいに言語化したもののようだけれど、どれも感情を大きくオーバーランしていても。大袈裟な言葉を並べることで、思いの熱量が伝わって説得力が増すという効果はあるとは思うけれど、それが自分の感情とイコールかというと、決してそうではないのである。
いしわたり淳治「言葉にできない想いは本当にあるのか」

本当にその通りだ。ケイコは話せないから感情はボディーランゲージしか使えない。手話のみでは健聴者との意思疎通は限界がある。だから、ケイコはボクシングを通して自分の思いを爆発させたのかと思った。ボクシングはケイコの感情そのもので、熱心に取り組んだ理由もなんとなくそれだと思った。それしかないから自分のリズムは自分で作るしかないから自分の感情の伝え方は自分なりの伝え方しかない。

2023/1/17から1/18にかけて開催されたカネコアヤノの武道館ライブに行った。カネコアヤノはMCがなく、ありがとうしかない。けど、カネコアヤノは歌で言いたいことをすべて言い切っている。カネコアヤノがMCしないのは必然だ。

また、スポーツに戻ると北島康介さんがオリンピックで「チョー気持ちいい」とか「何も言えねえ」というのが有名だ。それは水泳が北島康介さんにとっての感情を表すためのそのものだ。

なんとなく、人間がスポーツや芸術を続ける理由がわかってきた。それは自分の感情をスポーツや芸術を通して伝えることだと思った。

映画に戻ると、自分がこの映画に感動した理由は、ケイコが自分の思いや感情を中々、人に伝えることが難しいからボクシングで伝えるしかなかった。特に最後のボクシングの試合のシーンが象徴的だった。そこでものすごい気合いのはいった叫ぶシーンがあり、それはケイコが感情爆発してる怒っているし負けねえぞというのは伝わったあのシーンは鳥肌が立った。自分の感情は言葉だけじゃない、喜怒哀楽で表現するというのは言葉の1つなのかもしれないと思った。自分にとってお守りになる映画ができたことは喜ばしい。

最後に、この映画の英題は「Small,Slow but Steady」小さく、ゆっくりでもけど着実に。
あーなんていい言葉なんだ。また、言葉は便利だけどそれだけじゃ伝わらないことは他に使おうと思う自分も恥ずかしさを、とっぱらって何かやるべきだという作品だった。

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