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2006年のインターネットはよかったのか

この場所は寒い。おまけにどこへ行くにも車が必要だ。朝6時半に起きてピーナッツバターを塗ったサンドイッチを紙袋に詰めて、黄色いスクールバスに乗り、授業を受けて、ほとんど誰とも話すことなくスクールバスに乗って帰る。毎日。なんで私は今こんな場所にいるのだろう?それは母の意向でアメリカに交換留学という名の左遷に遭っているからである。この苦行は1年間続いたが、今振り返ってもあのときほど苦しいことなんてそうそうない、そう思える貴重な体験となった。

レンタルビデオ屋くらいしか文化資本がない場所で、一縷の蜘蛛の糸のような輝きを放つノートパソコンのディスプレイ。あのときイリノイ州の片田舎からアクセスしたワールド・ワイド・ウェブは劇薬だった。同じウィンドウで他の留学生の楽しそうな Myspace と自分の境遇を比べて落胆し、ニコニコ動画でコメント欄の匿名ユーザたちと国境を超えた一体感を擬似体験した。あのとき見た違法アップロードの「涼宮ハルヒの憂鬱」や「おおきく振りかぶって」ほど、自分の青春時代を象徴するものはないだろう。当然ハレ晴レユカイも踊れたし、誰かが再現した東方永夜抄のサウンドトラックの MIDI を携帯の着信音に変換したし、自分でコマ送りの絵を描いてアニメーション MAD も作ったし、その後プログラムを書いて生計を立てることになる礎の体験となった。そもそも親が異文化交流を望んだであろう交換留学の一番の思い出が日本にいても出来るアニメ視聴だったなんて皮肉だがクソウケるので、飲み会で披露する鉄板ネタとなっている。めでたしめでたし……と、話をきれいに畳んでもいいが、もう少し語りたいことがある。

前述したように私が左遷されたのは母の意向であり、具体的には「将来的に有利だから英語が話せるようになって欲しい」という体で母が諦めた願望の代行案件だった。遂行結果として、私は英語を多少話せるようになり、また履歴書などに留学経験のことを記すと一部にウケた。他にも私は願望代行遂行人として「4年制の大学に通うこと」「正社員として就職すること」といった案件をこなしてきた。母も資金援助のためフルタイムで働きながら、ときに体罰などを駆使し勉強を手伝ってくれたりと、頑張った。

さて、歳を重ねるごとに少しずつ行動範囲が広がった私は、今まで縁のなかった場所に興味を持つようになった。それがクラブやライブハウスである。元々音楽を聴くことが好きだったので、ニコニコ動画ではアニメと並んで作業用 BGM とタグ付けされたプレイリスト動画をよく視聴していた。そのおかげでネットレーベルを知り、宅録シューゲイザーハーシュノイズブレイクコアゴアグラインドといった極北的な音楽と出会った。まだ Twitter (現: X) が改行すら出来なかった2010年、場所と出演者名が羅列されただけのツイート情報から勇気を出して一人でクラブのドアを開けたことがすべての始まりだった。皆フロアにいながらスマートフォンを見ながら踊っていて、真似してスマートフォンを見てみれば、そのイベントの感想が Twitter のタイムラインに流れてきた。フォローしているあの人たちも今この場所にいるんだと思うと親近感が沸いたし、現場にいるのに Twitter で呟くという文化も面白くてすぐに虜になった。それを皮切りに、大学の授業をサボってクラブやライブハウスに通い詰める日夜が始まった。アイコンと本人の顔も少しずつ一致しだし、友人と呼べる関係性になった人も増えた。

しかし、私は彼らが持つ文化資本と自分の持つそれの違いに居心地の悪さを覚えることが多かった。彼らの多くは音楽を始めとした芸術に造詣の深い環境で育ったのだろう、少なくとも「英語学習のために」と副音声のニュースが延々と流れる散らかったリビングで育った身からしたら、実家にパンクやテクノのレコードがあってそれを聴いて育ったとかっていうのは全く違う世界の話だと思った。そうした文化資本を持つ人達が自然と集まったのがこの場所なのだと思うと、音楽知識の大半がニコニコ動画とネットレーベルのフリーダウンロード由来の自分がいくら今からジャニスの当日レンタルを駆使しまくって付け焼き刃的に音楽知識を付けようとも混じれるような隙はないと感じていた。

一方で、留学経験や4年制大学に通うための経済的バックアップのある環境も文化資本のうちに定義されるから、その部分を抽出して見れば私の生育環境は「恵まれたもの」として扱われることが多い。その度に私は必ず後ろめたい気持ちになる。かっこいい履歴書は身を粉にして働いて資金を捻出した母の努力と、その熱意に応えることしか選択肢がないと思い詰めた私の、私達の苦悩が積み上がってできたものだ。さらにその背景には、30年デフレが続く日本の経済状況や就職事情、母が受けたジェンダー差別や私の過剰な思い込み、学区内公立学校の方針や先生との相性など、様々な要素が絡み合い、いうなればでこうなったとしか言いようがない。私自身の恵まれた部分はただの因果であり偶然を受け入れるしか術がなく、また友人たちについても同じことが言えるのだろう。生まれ持った環境変数に対して僕らは平等に無力だ。

あのとき出会えなかった物事を理想化して憧憬しても、あるいは出会った物事を卑屈にしか捉えられなかった未熟な自分を悔やんでも、手札にあるのは偶然の産物だけで、他人である僕らの間にある溝は埋まらない。それは生まれた場所や年代の違いや、そして00年代のインターネットを経験しているかについても同じなのだろう。違うけど、違うことは同じ。

それより、これから選挙で弱者に寄り添った候補に投票するなどして格差への抵抗を試みたり、友人やローカルのビジネスを支援してみんなの財布を潤したり、公開された芸術を体験することは可能である。そんな感じで僕ら同じように今ここにある日常を共にして芸術や表現活動を楽しめたらそれほど素晴らしいことはないし、少しでも近い気持ちになれたら嬉しい。そして何より生育環境の違う僕らを同じ場所に引き合わせてくれたのはこのインターネットだ。僕らに割り当てられたのは資本ではなく IP アドレスで、パケット通信でどこへでもいけて、そこから思わぬ結果が導かれることもしばしばある。もちろんそれはいいことばかりではなく、昔からトラブルは大小問わずある。それでも自分はこのレバレッジを効かせられる選択肢が無限に広がるインターネットが大好きで、ずっと偏在し続けている。

ここから決定論的な考え方に踏み込んで、自身の選択は外部環境による刺激と脳の計算結果であり自由意志によるものではない、とまでは言わないでおこう。なぜなら2006年にニコニコ動画にアクセスし、2010年に Twitter を見てイベントに足を運んだことが自由意志による選択であるからこそ今の自分があると、それを支えにしていたいからだ。


2024.12.29 追記: 脚注リンクたくさん貼ってみました。固有名詞の補完が主ですが、文章の内容を補強するような資料も入れてます。

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