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07/12 第一回トークイベント回顧録

政治の話はやはり面白い。地域に根付いた自然や文化の発展、市民たちの声。それらが実を結ぶための鍵となる判子を握るのは、自らの脚で地域を見てきた政治家たちなのだから。

 ちょうど一週間前の七月十二日。お話を聞かせていただいた佐藤稔さん(以下佐藤さん)は地域の変遷と悠創の丘の成り立ちを見届けてきた生き証人とも呼べるお方。三十歳から七十歳までの四十年間もの間、市議会議員として山形の上桜田を見てきた方だ。四十年もあれば歴史というものは地域に蓄積されるもので、その間佐藤さんは悠創の丘の成立を、その少し前には私たちの学び舎である東北芸術工科大学(以下芸工大)の設立も見届けている。

トークイベントの様子

 少し話題は政治の方に逸れてしまうかもしれないが、あまりに興味深いお話を聞いてしまったものだから、ここで少々語らせていただきたい。数え年なら今年で米寿を迎える、と仰っていた佐藤さんはおよそ五十八年前から市議会委員を勤め上げ、議員として当選する前、青年団としての活動の中あったと推測できる政界の観察を含めればもう六十年以上は山形の県と市の政治を見てきたということになる。その中で佐藤さんは、山形市長を務めていた金澤忠雄氏、山形県知事であった板垣清一郎氏といった芸工大及び悠創の丘にゆかりのある政治家を、そして彼らによる芸工大の配備を間近で見てきたという。

 彼らの奔走を知ると分かることだが、実は芸工大と悠創の丘の間には、家族に等しい深いつながりがあったのだ。

 まだ山形県内に四年制大学が山形大学しかなかった頃。かつてはこの地に医学系の大学を造ろうという計画があったらしい。しかし金沢元市長をはじめとした当時の山形市が、どうせ造るのなら芸術を、この山形や東北に残る文化を学ばせたいと京都の芸術大学を運営していた徳山詳直理事長に話をつけて誘致した。十年前の医学系の時は土地の確保にあたって現地住民からの反発があったのに対し、芸工大の誘致の際は意外なことに反対意見がほとんどなかったという。

 芸工大が生まれて以降、あの特徴的な三角頭の本館の向こう側、後背地を守ろうという機運が起こっていた。何せそこは山形市を一望できるほどの展望の良さに、緑豊かな自然に囲まれた土地。利便性を謳いながら企業によって土地が保有されてしまうと、開発が行われ、有力者の別荘や住宅街ができ、せっかくの自然が破壊されてしまうだろうとの懸念があった。そこで将来を強く危惧していた板垣元知事が後背地を丸ごと公園にして管理しようと、後背地の土地を使って農業を営んでいた地権者たちの賛同を得て悠創の丘が成り立つ。地権者は県から了承を得て緑地管理業務という形で以降も地域の自然を守っていけるよう、組合を結成した。その中に佐藤さんも関わっており、当時も市議であった佐藤さんは仕事の傍らNPO法人の立ち上げのために奔走していた。

 地権者たちは土地の買収によって仕事を失ってしまうことになるが、そうなった後の働き口を確保するのにも佐藤さんは尽力していた。なんと芸工大の清掃を担うサービス構造も、佐藤さんが整備したものらしい。かつて後背地で暮らしていた地権者やそのご夫人といった方々が、私たちの使う校舎を綺麗にしてくださっているとのことだ。

 また、悠創の丘の入り口にある『悠創館』。あそこは芸術品を展示する機能が備わった施設だが、展示する芸術品は芸工大生の作品を優先するとの決まりがあったらしい。さらに言うなら、元々悠創の丘は芸工大とマッチした公園を、との意図があったらしく、意外なつながりの判明に、お話を伺った際思わず胸が躍ることとなった。板垣元知事も芸工大の誘致に関与しているため、芸工大と悠創の丘は文字通りの親戚(続柄的には兄弟とまで言えてしまうだろうか)というわけだ。

 しかし今はやはり芸工大内でも悠創の丘の認知度は低く、かくいう私も悠創の丘についてこのプロジェクトが立ち上がるまでよく知らなかった。まだ詳しいことを知らない頃、スマホの地図アプリなどで悠創の丘の名前を見て、(芸工大の周辺施設の一つだろうか)だとか考えていた。しかし成り立ちの経歴から見ると、あながちこの偏見は間違っていなかったように思う(悠創の丘は本当に芸工大の周辺施設ではないが)。

 せっかく縁が結ばれていたのだから、この縁を絶やしてしまうわけにはいかないだろう。拙い能力ながら、私もこのプロジェクトを盛り上げる一員として尽力させていただく所存だ。


執筆:文芸学科 小林

#東北芸術工科大学 #大学 #山形 #トークイベント #悠創の丘

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