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7/19 第二回トークイベント回顧録

 梅雨も明け、山形は連日猛暑が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。『芸工大×悠創の丘プロジェクト』トークイベントも、7月19日に第2回が開催されました。今回お話を伺ったのは、「有限会社東北環境総合サービス」で総務部長を務めていらっしゃる、舟越隆さん。まずはじめに、舟越さんと芸工大の関わりについて、簡単にご紹介します。

画像左:舟越 隆さん

 今年で75歳を迎える舟越さんは、昭和23年の1月21日に、山形市大字上桜田で生まれました。代々農家を営んでいた家系で育ち、主にブドウやお米を栽培していたそうです。当時のブドウ畑は、「感動の丘」の東屋のあたりにあり、「結」という助け合いのシステムで収穫まで行っていました。芸工大ができたことで農地を失ってからは、大学の職員として主に清掃業を担当してくださっています。なんと、娘さんとお孫さんは芸工大出身で、保護者としても芸工大には愛着があるとのこと。

 今回のお話では、当時の上桜田のすがたや大学設立に至るまでの経緯、悠創の丘への思いなど、貴重なお話をたくさん聞くことができました。

 前回お越しいただいた佐藤稔さんのお話にもあった通り、芸工大ができるよりも前に、飯田町には山形大学医学部が設置されました。この山形大学ですが、当初の計画だと上桜田地区にできるはずだったそうなのです。ちょうど、今の芸工大よりも少し西側のあたりが候補地だったとか。しかし、当時の上桜田はあたり一面が田んぼでした。舟越さんと同じように、ほとんどの人が農家を営んでいたので、大学を設置するとなると、区画整理で農地を手放さなければいけません。結果、すでに区画整理が始まっていた飯田地区に構えることが決まったということです。

 しかし、農業一本で生計を立てていくのは難しく、特に面積が狭いと尚更収入は得られませんでした。舟越さんも、学生時代から「家は継いでほしいけれど、農業は継がなくてもいい」と親御さんに言われていたそうです。実際、山形大学設置後の飯田地区は、住宅街ができ、若者も増えて活気づいていき、そのあたりから、少しずつ上桜田の方々も大学設置に対しての考え方が変化していきました。
 このような経緯があったからこそ、芸工大の誘致が決まったとき、あまり反対意見が出なかったということなんですね。今の土地に私たちの学び舎があるのは、ある意味山形大学のおかげなのかもしれません。ただ近い距離にあるだけだと思っていた山形大学との思わぬ繋がりを知ることができて、なんだか親近感が湧いてしまいました。

 上桜田の区画整理が開始してからというもの、舟越さんのお父さんを始めとした町内会役員の方々は、土地の売買を説得するために一軒一軒歩いて町内を回りました。当然、反対派の方もいたわけですが、ちゃんと代替地を用意して、別の場所に農地を構えられるようにフォローしてくださったんだそう。改めて考えても、地域への想いが相当強くないと、ここまで大変なこともできませんよね…。

 芸工大設立後、同時に悠創の丘に出店などを設ける案もありましたが、相応の気力がある人員を確保できなかったこと、火気厳禁なこともあって、なかなか実現はできませんでした(舟越さん曰く、多くの人が「くたびれて」しまっていたとのこと)。

 そこで、舟越さんの発案で、芸工大の北側駐車場でビアガーデンを開催することに。毎年夏になると、焼き鳥や焼きそばなどの出店、芸工大生による民族舞踊やジャズクラブ披露などを行い、今でもさまざまな人が交流できる機会になっています。特にコロナ禍に入ってからは地域のイベントも減り、ご近所付き合いも希薄になってしまいましたが、ビアガーデンは今年も8月5日に開催されるみたいなので、お時間があれば皆様も立ち寄ってみてくださいね!


トークイベントの様子

 『悠創の丘』プロジェクトと銘打ってはいますが、今回は上桜田や芸工大全体の理解も深めることができて、大変有意義な時間でした。引き続きプロジェクトを盛り上げるために邁進していきますので、次回もぜひご覧ください。ご精読ありがとうございました!


(執筆:文芸学科 原田)



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