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夜行亜譚 《声》


 私は普段、看護師として病院で働いている。

 山間部にある小さな町の総合病院。待合室にはお年寄りの患者さんが世間話をしに殆ど毎日のようにやってくる。過疎が進んでいることもあり、およそ若い患者さんがやってくることはない。産科に訪れる妊婦さんの数も、駅前に小さな小児クリニックと産婦人科のクリニックが開業してからは、目に見えて減ったように思う。

 それだけを聞くとさぞ勤務も暇になっただろうという人もいるが、病院であっても、需要が減れば供給も減少する例に漏れることはない。

 病院を利用する人に対して、私たち看護師や医師の先生の数は慢性的に不足している。そのため、私のような若輩者でも容赦なくこき使われる。看護師の仕事はもちろん、幅広い雑務で心身をすり減らす毎日だ。それでも五年間なんとかやってこられたのは、とにかく周りの先輩たちについていこうと必死だったからだろう。気がつけば、同期の仲間たちは全員いなくなっていた。

「足りないのよ。患者さんの命を預かっているという自覚がね」

看護主任の坂口さんはそう言って、忌々しげに書類にサインを書き殴った。彼女はここに勤めて二十年の古株で、歯に絹着せぬ物言いをするが、仕事は的確だし、さっぱりとした性格のいい上司だ。

「そうですね。自覚というか、自分がミスをしてしまわないかいつも心配しています」

「澤井さんは大丈夫よ。根性があるから」

 彼女あるいは彼らと、私の違いは、地元の出身かどうかではなかろうか。彼らには転職して街で働く選択肢もあっただろうが、私は此処を辞めてしまえば、とにかく世間体が悪かった。小さな地方のの町だ。醜聞はすぐに広まるし、実家に帰って引きこもる訳にもいかない。親戚や友人たちが職場へやってくることも少なくないのだ。

「夜勤も澤井さんと一緒なら一安心だわ。あなた、お年寄りの患者さんたちにも愛想がいいから」

 夜勤にもいい加減慣れたが、昼間と夜では病棟の様子はまるで違う。昼間は明るく、忙しさの中にも患者さんたちの喧騒に満ちているのに、陽が暮れて夜になれば表情は一変してしまう。固く、どこか拒絶的な病棟で働くのは、やはり心地がいいものではなかった。

「でも、こんなことを言うと不謹慎なのは分かっているんですけど、あんまり気持ちのいいものじゃありませんよね。夜の病院って」

「そうね。ここは特に古いから。増改築を繰り返しているせいで、あちこち入り組んでいるし。旧病棟の方の患者さんからはいつも苦情がくるしね」

 しょうがないわよ、と坂口さんは笑い書類から顔を上げた。その表情はどこか硬い。

「……そういえばね、金子君も見たらしいのよ」

 耳元で声を潜めるように言うので、私も背筋が冷たくなった。

 金子君と言うのは私よりも三つ年上の先輩看護師で、寡黙で真面目な男性だ。およそ冗談を言うような人じゃない。

「女の幽霊、ですか」

 いつからだろうか。少し前から女の幽霊を見たという職員がちらほら現れるようになったのは。最初は誰も相手にはしなかった。病院という場所は、どうしてもその手の怪談話が多い。

 どんな真冬であろうと、僅かな隙間を必ず開けておかねばならない、二階廊下奥の小さな引き違い窓。空き部屋から押される午前1時のナースコール。乗ってくる人もいない階で、時折開く旧病棟のエレベーター。

 初めは驚くものの、皆いつの間にか慣れていく。何が見えるわけでもなく、心から信じているわけでもない。ただ「そういうもの」として受け入れるしかないものが、此処にはあるのだ。

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