最高の漫画家、鳥山明




鳥山先生を、あえて「鳥山明」と、敬称を外したのは、尊敬する人としてでなく、ただの1ファンとして鳥山明を語りたかったからだ。たぶん、過去の自分に。「鳥山明のドラゴンボールって漫画めちゃくちゃおもしれーんだよ!」って、クソガキの頃の自分に。

ドラゴンボールは最初のうちは親戚の家で読んでいた。親戚の家でしか読めないのがある時耐えられなくなって、中途半端に26巻から自分で買い始めたんだった。26巻は確か、悟空の20倍界王拳が通用しなくて、一体全体どうしたら…といった展開で終わる。次の27巻では、いよいよ悟空が超サイヤ人になるのだ。お前は、何回も何回もその巻を読むんだ。

面白いよな。20年経った今でも味がするぞ、その漫画。薄味になるどころか、お前が感じているよりも多分、俺は色んな味を感じているぞ。まあ、初めて読む瞬間のワクワク感には負けるかもしれないけど。とにかくすげーんだよ鳥山明は。ほんとにほんとに、すごいんだ。
と、そういう感じなんだな。敬称を外す理由は。多分。

鳥山明に抱いている感情、「尊敬」という言葉は少し合わない。もちろん尊敬してるけど、「尊敬してます」と口にすると、何か足りない感じがする。神様みたいな存在、という表現もあるけど、それも少しイメージが違う。唯一神のように崇めてる感じではなくて、どちらかと言うと偏在してる系の神、自然に近い。世界の中に、漫画界に、鳥山明やそのイズムが当たり前に存在していて、不意にそれを見つけると喜びを覚える感じだ。

漫画家への憧憬が捨てられず、中途半端な年齢から俺も漫画を描き始めた。漫画を描いていて、不思議なことだが、「俺が漫画をこう描いてしまったのは、鳥山明の影響ではないか?」と思った事が数回ある。直接的に何かの表現を真似たわけではないが、自分の中に焼き付いている何かがある。それは驚きでもあり喜びでもあった。好きなものって自然と絵に出てくるんだと思った。

ドラゴンボールはクソガキの頃から読んでいたし、鳥山明の「光」を浴びて少年時代を生きた漫画家たちの漫画も好んで読んでいたから、もう直接的に鳥山明を取り込もうとしなくても浸透している部分があるのだと思った。

尾田栄一郎のワンピースや岸本斉史のNARUTO、絵とか漫画のスタイルは必ずしも鳥山に似ているわけではないけど、精神性やコマ割りに、鳥山イズムを感じた事がある。俺は、ジャンプ漫画が今でも人気で、読みやすくて面白いのは、鳥山明が開いた地平がまだ生きてるからではないかと思っている。

コマの構成、意味内容の文節が恐ろしく平易で、世界が適切な速度で展開され続けるからページを読む手が止められない。「ドラゴンボールはゆっくり読むのが難しい」と感じた時に、そんな事を思った。
俺も、もっと鳥山明から学ばなければならないと思っていた。鳥山明の漫画を模写して分析すれば多くを得られると思っていた。

けど正直、ドラゴンボールを開いたらもう、一読者として普通に読んでしまうのだ。漫画の教科書にふさわしいと思っているが、ドラゴンボールを開いて、さあお勉強するぞ、という気持ちに全くならないのだ。
ただのファンとして、可愛いとか、かっこいいとか、面白いとか楽しいとか…そういう、子供の頃の気持ちに戻ってしまうのだ。神様とか尊敬とかそういうんじゃない。

本当に大好きだった。
いっぱい楽しませてくれてありがとう。
これしかない。俺が鳥山先生に言いたいことは。

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