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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第75回 辻元よしふみ、辻元玲子

第二次大戦で生まれた戦闘用ブルゾン

ブルゾン、日本でいうジャンパーと、戦闘服の話題の続きである。
すでに英国陸軍では、世界に先駆けて戦闘専用の服装であるバトルドレスを一九三七年に採用していた。腰丈で隠しボタン、胸ポケット付きの先進的な戦闘用ブルゾンと、張りポケットが付いたカーゴパンツ型のズボンの組み合わせで、現代の戦闘用軍服すべての元祖である。
そして、一九四一年末に太平洋戦争が始まると、米陸軍の服装改革が始まる。合理的なもの好きで、また基本的には軍人というものの格が過剰に高くない……ほかの国では将校とは本来、階級というより身分であり、王侯貴族の特権で、だから軍服がきらびやかなのもその名残なのだが、米軍というのはいわば、独立戦争に際して急ごしらえで作った民兵隊のなれの果て、である。質素で地味だが質実剛健、勇壮さやかっこよさより合理性に走るのはお国柄。それと同時に、戦争の実体が、ダンディズムなど発揮する余地がないほど熾烈になったのも事実である。それでも終戦まで、最前線でも勲章をぶら下げ、粋な軍帽を好んでヘルメットすらかぶりたがらなかったというドイツ軍とかソ連軍のルックス第一主義は、逆に見上げたものである。
かくて、一九四一年に米軍に納入されたのがM41ジャケットという、はっきりいって民生用の作業着そのものの服である。当時は明るいカーキ色、ほぼ色調としてはダークイエローのものだった。これは緒戦の米軍の戦闘地域がアジアの熱帯地やアフリカ戦線、イタリア戦線だったからだ。四三年にはデザインが改正され、緑色の生地を使ったM43ジャケットが出回るが、これは翌年六月以後、米軍がノルマンディーに上陸して欧州戦線を戦うための装備。が、古参の兵隊は終戦まで明るいカーキ色のM41を好んだらしい。
これらのほかに、米陸軍では戦車兵向けにタンカースジャケットというものも採用している。狭い戦車内で動きやすく邪魔にならないデザインで、これも全く今でいうブルゾン、ジャンパーそのままである。

今も大人気のA2、MA1とM65

朝鮮戦争(一九五〇~五三)のときに、米陸軍ではM43を改良した新型のM51ジャケットが採用された。同年、冬季用にM51パーカも採用された。本来、二十世紀の初めに極地探検家たちがイヌイットの人々から教わって着るようになったフード付き防寒着がアノラックやパーカだが、ここにきて一般化したわけである。朝鮮半島の冬場は過酷な寒さである。米軍は一九四四~四五年の欧州の戦場でも冬の寒さに耐えかねたのだが、そのせいもあって軍用のアウターを充実させていった。このパーカの方は、今でも日本では「モッズコート」という名前で人気が高い。イギリスで50年代の不良少年たち、「モッズ」が好んで着たからである。
同じ頃、陸軍から独立した米空軍が採用した、空軍専用のパイロット用ジャケットの決定版がMA1である。
一九二〇年代末から、他に先駆けてA1、A2ジャケットを採用した米陸軍航空隊は。さらに大型機乗員用のボマージャケットとして知られるB3などを次々に開発、海軍用のG1ジャケットも含め、航空衣料では、さすがに航空王国の米航空隊は進んでいたと言える。第二次大戦後にはナイロン製のN2、N3などが温度、高度別に採用され、決定版のMA1につながることになる。朝鮮半島では、山間部で撃墜されたパイロットが無事にパラシュートで降下できたとしても、そこから地上を歩いて生還するのは非常に困難であった。いったん捕虜となれば残酷な仕打ちも想定される。その戦訓から、MA1の裏地を目立つオレンジにし、救難を待つパイロットは裏向きに着て、上空を飛ぶ遊軍機に目立つようにした、というのはよく知られる逸話である。MA1は、それまでの米軍フライトジャケットにあった襟を廃止しているのも特徴だった。高性能のジェット戦闘機の時代を迎え、パイロットも必ず大きなヘルメットを被るようになり、襟が邪魔になってきたからである。なお、MA1というのは、モディファイ(修正)したA1、という意味合いである。
ベトナム戦争(一九六〇~七五)では、さらに新しい陸軍用アウターが登場した。M65である。なんといっても今時、セレクトショップなどで若者向きのファッションとして、M65をルーツとしたアウターが出回っており、これほど民間の衣料に浸透した軍用アイテムもないだろう。
ところで、A2ジャケットおよび、MA1、M65の三つは、米軍の軍用ブルゾンから日常的なカジュアル・アイテムとして一般普及したヒット商品御三家でもある。いずれも、映画のヒットがきっかけになって民間衣料品として定着したのは興味深い。
まずA2ジャケットは、第二次大戦中の実話をもとにした映画「大脱走」(一九六三)で米陸軍パイロットの役を演じたスティーブ・マックイーンが着こなして名前を上げた。MA1のヒット商品化はトム・クルーズ主演の映画「トップガン」(一九八六)で、フライトジャケットが大流行したのが契機となった。しかし実のところ、トムは海軍のパイロットという役柄で、着ていたのも海軍用のG1ジャケットだった。そのG1は陸軍用のA2とよく似た、かなり高価な皮革製ジャケットで、その代用品という形で、より手に入りやすいMA1が一般向けに出回ったようである。M65の方は、映画「タクシードライバー」(一九七六)でロバート・デニーロが着て一躍、有名になった。
もう一つ、ベトナム戦では防暑用に現地で考案されたものがあって、「ジャングル・ファティーグ」と呼ばれた。俗に「迷彩服」というときに、今の日本人が思い浮かべるのはこの種の服ではないだろうか。あくまでベトナム戦線での現地用、という限定的な位置づけだったが、それまで必ずしも迷彩柄の衣服に熱心でなかった米軍が初めて本格的に導入したジャングル用迷彩の服であり、今でも人気が高い米軍の戦闘服のひとつだ。

デジタル迷彩の戦闘服に進化

九〇年代に入ると米軍衣料品の革新が始まって、湾岸戦争(一九九〇~九一)やイラク戦争(二〇〇三)ではバトル・ドレス・ユニフォームBDUが使用され有名になった。中東の戦場で、砂漠用の明るいベージュを基調とした迷彩服を着た米軍兵士の姿を覚えている人も多いだろう。
さらに二〇〇五年、アーミー・コンバット・ユニフォームACUという新素材のコンバット・ドレスが採用された。グレーを基調にしたデジタル迷彩のACU戦闘服は、二〇一一年の東日本大震災で日本に救援に来た米軍兵士たちの姿でわが国でも広く知られたことだろう。
さらに近い将来は、全身を機械とIT機器で固めた、まるきり機動戦士ガンダムみたいな歩兵装備が採用されるという。もうこのへんになると、民間アパレルがファッションアイテムとして真似することが難しい、服装というよりは、まったくの装備品、兵器体系の一部となっていくのだろう。

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