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スーツ=軍服!? 改訂版 第34回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載34回辻元よしふみ、辻元玲子
 
 
⑨「クールビズ」と「服装昇格の法則」

気になった「政治的ユニフォーム」
 
以下の文章は途中まで、二〇〇六年頃に書いたものを下敷きとしている。今となってはあれだけ人気が高かった小泉純一郎首相も過去の人というしかあるまい。一読いただければ分かるように、私は個人的に小泉政権をあまり支持していなかった。その後、政権が民主党に移って自民党は野党に転落し、さらにまた自民党が政権に返り咲き、小泉時代に若手の官房長官だった安倍晋三氏が二回目の総理に就く、などほんの数年で時代は大きく移り変わった。この間、東日本大震災が起こり、エネルギー事情や国際環境、社会の雰囲気も変化している。さらに新型コロナである。この数年で、世の中も、すっかりファッションにかんする考え方が変わったのではないか。私自身もまたそうである。
だから、今の私は〇六年当時とは、クールビズについても考え方は全く変わっているのだが、あの当時でしか書けなかった感覚や問題提起は記録として大事だと思うし、また個々に取り上げていること自体は今読んでも面白いので、まずはほぼそのまま、掲載することにする。
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 すっかり昔話ではあるが、二〇〇五年九月十一日の「郵政解散」による総選挙で、当時の小泉・自民党政権は大勝利を収めた。そして、そのユニフォームとも言うべきものが、ネクタイを外し、派手な色やデザインのワイシャツ姿の「クールビズ」だった。まさにこの年からクールビズ運動が始まったのである。
しばしばボタンダウンやドェエ・ボットーニ(二つボタン)だったり、あるいは襟と袖口だけ白いクレリックだったり……いろいろなワイシャツを着て、というスタイルで、キャンペーンの説明によれば、冷房の温度を高めに設定しましょう、ついては夏場は上着とネクタイを外しワイシャツだけのスタイルで仕事をしましょう、ということで、小池百合子環境大臣(当時)の肝入りで大々的に宣伝した。
 いろいろなシャツを日本の男が着るようになった、という意味ではそれもまたよしなのだが、しかしボタンダウンのシャツはポロ競技用の、襟をボタンで留めたシャツをドレスシャツに応用したもので、決してフォーマルなシャツではない。ドゥエ・ボットーニというのも襟元にボタンが二つあるというだけのイタリア語で、どっちかというとイタリアの突飛な人が好んだシャツである。クレリック(僧侶風)と日本では一般的に呼ばれる白襟のカラーシャツも、そもそもデタッチャブル(取り外し式)カラーだけ色を変えて着けてみたことに由来し、決して格調高いドレスシャツではなく、もちろん通常のビジネスでは全く問題ないが、たとえば総理大臣が公務や外遊で着るべきシャツではないと思う。
 それはそれとして、この服装改革運動が、郵政改革推進を旗印に掲げる小泉内閣のイメージとマッチしたらしく、少なくともあの年に関しては、ノーネクタイ姿と自民党支持者というのが重なって見えたのは確かである。事実、二〇〇七年春、わざわざ政府与党は「国政選挙で与党候補はクールビズを」と通達を出して、「与党の制服化」をはっきり打ち出したものである(※注:その後、政権交代した民主党も与党となってからクールビズを受け入れ、二〇一一年の東日本大震災以後は一層の夏場の略装化、いわゆるスーパー・クールビズに進んだ。よって、ここで記しているような、クールビズが自民党のユニフォームという印象を持たれたのは二〇〇六年~〇九年の間のことだった)。
 しかし、一年中、スーツ姿という発想は制服的だが、六月~九月はシャツ姿、というのを大臣が部下に、官庁が出入りの民間人などに押し付けるのも制服の発想である。もっと日本人は自律的に、その日の天気や気温、湿度、曜日を考え、自分の立場、その日の仕事やTPOを考え、衣服の素材や色柄、その衣服の由来や意味合いを考え、己のセンスで毎日の装いを決定すべきであり、政府などのキャンペーンで己の服装を規定されるべきではない、と感じる。
 ことに、ダークスーツのままでタイだけ外せばクールビズ、などという芸のない人を見るとイヤになってくる。もう少し自分の服装など自分で考えてはどうか。それより前に夏の素材を使ったジャケットやスラックスに替えるとか、もっと気を遣うべきことがあるはずである。タイにしても、日本人はもっと涼しげなニットタイを締めるべきで(そして出来るなら、冬場には今度はウールタイを選ぶぐらいのセンスが欲しい)、そもそも分厚いネクタイを真夏に締めているのは初めからナンセンスである。涼しげな素材と着こなしをまず考えるべきである。
 しばしば、ネクタイは窮屈であり、誰しもが外せるものなら外したいに決まっている、という前提に立って言う人が多すぎる。しかし世の中には実用より装いを優先したい人もいる。そういう人が締めたくて締めているのに外せ、と命ずるのも強制であろう。人はそれぞれ、考え方もさまざまであるべきである。
こういう統制的なキャンペーンに我も我もと無批判に従う日本人の姿には、どうも嫌悪感を覚える(注記:ただし、コロナ流行中のマスクについても同列に論じる人がいるが、それは違う。病気を抑えるための努力はファッションという範疇ではない)。かつて戦時中、「非常時だ」「ぜいたくは敵だ」というかけ声の下、パーマもスカートも禁止、女はモンペ、男は国民服で統一された戦時下の日本人を重ねてみてしまう。今なら一歩間違えば「温暖化だ」「環境が大事だ」「タイなどしているヤツは非国民だ」となりかねない。
ドレスコードに自発的に従うのはおしゃれであり、たしなみである。しかし公権力の命令に民間人が一も二もなく従うのは全体主義である。同じ戦時下、ナチス時代のドイツは当然、米英でも、民生品は規制され生活水準は落とされたが、女性たちは、ぜいたくはできないとしても、精いっぱいのおしゃれをした。空襲で焼け野原となった市街を盛装して歩くロンドンの女性の写真が残っている。服装の自由は心の自由であり、それを失うのは心の屈服、つまり敗北であることを知っているからである。どこの国でも、ぜいたくは戒めたものの、いちいち着るものの指定などしなかったのは言うまでもない。第二次大戦中、イギリスでは戦時統制服というのを売り出したが、それは確かに素材や作りの点で雑なのだが、立派なダブルのスーツで、日本人の目からすると、どうしてこれが戦時服なのか、と思ってしまうほどお洒落なものだった。
 夏の軽装がいけないとか、ノーネクタイがいけないとか言いたいのではない。常にその日の装いは、主体的に個々人が考えるべきだ、と言いたい。暑いのか、肌寒いのか、公式の場なのか、パワープレイが必要な日なのか、リラックスが効果的な日なのか。それになにより、その服装が自分に似合うのか、似合わないのか。センツァ・クラバッタ(イタリア語でノーネクタイの意味。単数だからクラバッテではないだろう)大いに結構。自分の考えであるならば。しかし人に合わせる必要、政府のリードに合わせる必然など全くない。
なんにせよ、六月一日~九月三十日の間の制服を「政府に決めてもらう」べきものでは断じてない、という気がする。


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