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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第109回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載109回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。

現代的な「官帽」の成立

そして、この時代(十九世紀初め)の帽子で見逃せないのが、現代の各国軍人や警察官、日本の自衛官、鉄道の職員などが被るいわゆる「官帽子」あるいは「官帽」である。英語圏ではコンビネーション・キャップ、ピークド・キャップなど。あるいは米国などではホイール・キャップ、バイザー・キャップ、サービス・キャップなどともいう。
原型は一八一〇年代に出現している。ナポレオン戦役の時代にプロイセン軍のブリュッヘル元帥や幕僚が野戦用にかぶったものという。この形は、プロイセン軍の下士官兵が用いていたミュッツェ帽にツバを取り付けた形式で、ドイツ語でシルムミュッツェというが、原語としてはまさに「ツバ付きのミュッツェ」の意味である。英語におけるピークド・キャップとかバイザー・キャップというのはドイツ語の翻訳である。ミュッツェの項で紹介したように、本来は中世の聖職者の帽子の形式で、学帽としてドイツで広まり、反仏義勇軍の学生たちが軍帽として使用し始めたようである。これにツバを装着したシルムミュッツェは、一八一三年に編成されたプロイセンの新しい国民軍ラントヴェアの制帽として採用され、ナポレオンに対抗する新時代の帽子として人気を得た。同年以後、ブリュッヘルもそれまでのフランス式二角帽に代わって、トレードマークのようにシルムミュッツェを被っていた。
同様の帽子はすでにロシア軍でも採用されていたという記録もあり、プロイセン軍部と深い人的関係にあったこともあって、「エフェラジカ」の名でこの形式の制帽が早く普及した。ナポレオンを追い返したロシアの名将ミハイル・クトゥーゾフ元帥(一七四五~一八一三)も初期の官帽子の着用者だったとみられている。
はっきりと導入年代が分かるもので言えば、一八三八年に米陸軍が採用したM1838略帽というものがある。南北戦争時代にもベテラン兵士に使用されるほど息が長い様式となった。これはほとんど現代の官帽子そのもののデザインとなっていた。
十九世紀前半の時代には、将校の正式の帽子は二角帽で、このような帽子は略帽だったと思われるが、一八五〇年代には英海軍に受け入れられ、十九世紀後半には将校の略帽としても普及し、普仏戦争時のプロイセン・ドイツ軍の将校には完全に普及している。
この時期のドイツ軍では、ピッケル・ハウベという一八四三年制定の装飾的なヘルメットが正式な被り物で、こちらはあくまで略帽扱いだったと思われる。十九世紀末から二十世紀初めにかけて、各国の軍隊では制帽としてこの形式の帽子を制定していった。英陸軍も二十世紀初めに全軍がカーキ色化した際に制帽もこのプロイセン式に変更した。
第一次大戦中は、防御力の高いスチールヘルメットが各国の軍隊に導入され、最前線ではヘルメット着用が普通になる。
そういう時代になっても、ドイツ軍将校はシルムミュッツェ式の将校帽を愛した。ドイツ軍ではツバのない円形帽ミュッツェは兵士用、ということがあり、ツバ付きは、将校や古参下士官だけが着用できるステータスとも見なされた。そのためドイツ軍では、「野戦用将校帽」なる、わざわざ針金を抜いて柔らかくした帽子まで特注され、第二次大戦中も規定上は禁止されていたにもかかわらず、終戦にいたるまで広く使用された。実用としてはヘルメットの方が安全であるのに、将校帽に固執したドイツ将校の姿勢は、いわば戦場のダンディズムとでもいうべき独特の境地だったと言え、同時代に軍刀に固執した日本軍将校とも同質の精神かもしれない。同じように、ソ連軍の将校もエフェラジカを常に着用する傾向が強かった。両国とも、ナポレオン戦争時代からの「シルムミュッツェの本場」であるから、愛着が強いのも当然だったといえる。


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