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卒業

息子の卒業式が終わった。

一足先に電車で登校する息子を見送って、私の方も、1時間ほどで支度を終えて出かけなければならない。制服を着て息子が高校に行くのも今日で終わりだ。しかし、感慨にふける暇はないし、そんな気持ちに今は目を向けない方がいい。淡々と昨日のうちに用意しておいたスーツに着替えた。

このツイードのジャケットを買ったのは、息子が小学校1年生の入学の時だった。気に入ったジャケットを見つけて、金額の方も奮発して買ったということもあって、それ以来三人の子どもたちの入学式、卒業式と数えてみたら15回ほど着ている。これはもう元をとったというのか、つくづく安上がりにできているというか。それでも3年ぶりに袖を通したジャケットに、やっぱりいいな、と満足している。このお気に入りのジャケットの出番も今日が最後だ。

学校からの通知で、コロナ禍における卒業式の保護者参加は、各家庭1名ということだった。会場につくと保護者席は既に半分ほどうまっていた。空いている席をさがして、近くに知っているお母さん達を見つけてホッと腰をおろした。

体育館のステージの右側には校歌の歌詞が掲げられている。地域のスポーツ強豪校である息子の学校の校歌は、卒業生でもないのに知っていた。3年前の入学式で歌った時はなんだか誇らしくて感極まった。反対側には旧制中学時代の校歌の歌詞も掲げられている。父や叔父達が卒業した学校でもあり、孫が同じ学校に通うことになって喜んでくれているだろうなと思ったりもした。

3年という時間はなんてあっという間に過ぎたのだろう。こうして今また同じ場所に座っている。入学式の希望に膨らんだ晴れやかな気持ちを思い出すと、ひとふりの苦さを感じて顔が歪む。あの時思い描いていた輝かしい未来は得ることができなかった。ただひたむきに夢を追いかけた努力は報われなかった。この3年間の悔しさやみたされない思いをどこか胸に抱えて息子はこの場に座っているのではないかと思った。

努力することは大切なことだ。でも、努力したことが、すべて結果に結びつくとは限らない。努力したことが、認めてもらえないこともある。人生で味わう、みたされない思いや、無力感を息子は十分に味わったと思う。それは大人に近づいたということなのだろう。無邪気な万能感で満たされていた子どもは、自分の限界に気がつき、謙虚でやさしい大人になっていく。それは大切な成長の過程ではあろうが、親としてはそんな風に納得するのには時間がかかっている。

例年より短縮された式典が終わり、最後のホームルームを終えて子ども達が玄関から飛び出してくる。いつまでも別れが惜しくて、人を替え場所を替えて写真を撮りあっていた。

家に帰ってから、息子に頼んでいくつか写真をラインで送ってもらった。写真に写っている息子の笑顔はどれも、とびきりまぶしかった。いい高校生活だったんだな、と思う。親の心配など、まったくどこ吹く風だ。楽しかったことも辛かったことも、すべて飲み込んで息子の笑顔がある。良かったな。いい3年間だったな。だんだんそんな風に思えてきた。

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