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ショートショート

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「こうだったらいいな」「ああなりたいなぁ」「もしもこうだったら怖いなぁ」たくさんの「もしも」の世界です。
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無意識からの言葉~ショートショート~【音声と文章】

普段、そんなことを言わないルミが愚痴を言い出した。 よほどその件は頭に来ていることらしい。 彼女は珍しく雄弁だった。 いつもはにこやかに相手の話を聞くルミなのに、今日の彼女の話はなかなか止まらなかった。 ルミは職場で理不尽な扱い方をされたことを話す。 うんうん、そういう事ってあるある、とめぐみは同調する。 一通り話し終えたルミはメロンソーダのストローをズズズッーっとすする。 今、自分はどんな気持ちでいるのかを語ったルミの胸の熱さに、冷えたメロンソーダが心地よかった。 めぐみもつい、ルミの話に同調して、愚痴を言い出した。 こんなこと、言っても時間の無駄だともう一人のめぐみが右後ろで肩を叩いていたが、めぐみはそれを無視して後ろ向きな話を続けた。 やがて、ルミは3か月後に今の会社を辞めることに決めた。 「お互い、頑張ろうね」 そう言って夕暮れの中にルミは消えていった。 「あぁ、もうこんな時間。」 めぐみは小走りで帰宅の途についた。 お母さんが作ってくれた筑前煮を時間をかけて味わっていたら、ミサキから「今、電話していい?」ってラインが入った。 「うん、もち!」 すぐにミサキから電話が来た。 3か月前にすらりとした男性と結婚したばかりの新婚さんだ。 それからはミサキからのろけ話を聞かされるようになり、「あぁ、私もそろそろ結婚したいなぁ」とめぐみは思うようになっていた。 さっき、ルミから後ろ向きな話を聞いてつい、自分も同調してしまい、めぐみの周りには負の雰囲気が漂っていたから、ここで幸せいっぱいのミサキからプラスのイメージをいただこうとめぐみは思った。 しかし、ミサキの話はいつもと違い、ご主人様と些細なことで喧嘩をし、その話がずっと続いた。一つの彼への疑念が別の行動の理由付けに発展する。 疑いが疑いを呼び、どんどん、彼への不信感が湧いてくるとミサキは話した。 「そんなこと無いよ、彼に限っては。彼はミサキを世界中で一番愛しているんだから。」 めぐみは心を込めてそう言った。 それから1時間くらい話をして、やっと電話は終わった。 ふぅ~。 今日は、一つの負の状態が次の負を引き寄せてしまった。 ルミの話につい同調してしまったから、そのマイナスなイメージが自分を包んでしまい、そして、そのネガティブな感情に引き寄せられるようにミサキからの話が来たのだと思う。 言葉には気を付けよう。 無意識な言葉は本当の自分の気持ちだから。 新婚のミサキがご主人様とちょっとした喧嘩をしている。 それはよくあることだ。 その話に深入りしないようにしよう。 ミサキの彼とは、数年前、めぐみが付き合っていたことをミサキは知らない。 だから、二人の結婚披露宴はとても複雑な心境だった。 でも、忘れよう。 それを引きづっていたら、同じような境遇が自分に引き寄せられるから。 無意識が引き寄せるから、無意識を意識していこう。 めぐみは目を閉じ、真っ白な世界に入って行った。 ※note毎日連続投稿1900日をコミット中!  1839日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad 無意識からの言葉~ショートショート~

月額五千円って、小さな額だけれど【音声と文章】ショートショート

君が生まれて 学資保険とは別に 君のお母さんは毎月五千円の積み立てをすることにした 月に五千円なんて 一年にすると6万円にしかならない 10年後は60万円 20年後は120万円 そんな少ない金額、何になる 月に1万円にしたら 一年で12万円 10年後は120万円 20年後は240万円になる その方がいいかなと君のお母さんは思った でも少ないお給料からは 出せる金額にも限度があった ごちゃごちゃ考えていたら始められなくなるから とりあえず毎月5千円を積み立てることに君のお母さんは決めたんだ そのお金はあってないようなもの でも全く気にせずにいたと言うと嘘になる その定期積立は 毎月数円~数十円の利息が付く優れもなのだ。 今は普通預金で100万円あっても利息は年に数円しかつかない それに比べてこの積立は、毎月利息がつくから通帳を見ているだけで希望が湧く 君のお母さんは時々その通帳を広げ微笑んでいた その利息の印字が 「今月も娘が無事に過ごせました」と言っているようだった コツコツ、コツコツ 通帳を開くとそんな音が聞こえるね 僕はけっして貯蓄を推奨しているわけではない 必要な事にはお金を使うべきだと思っているし、実際、お母さんはこれまでもそうしてきた 君のお母さんは月額五千円は少ないかもしれないとずっと気にしていた 金銭的に余裕ができたら 月額五千円から1万円などに増額しよう そう思って始めたんだ でもその後、二人目、三人目が産まれ その子達にも同じ定期積立を始めたから 結局、五千円のままになっている やがて、いつの間にかそれが積みあがって全くあてにしていなかったお金を生かせる時が来た 君が高校を卒業して都会の学校に行くことになった 君のお父さんもお母さんも高卒だから、上の学校に上がる時に どれほどのお金がかかるか知らなかった そして、現実が目の前に現れ、想像以上のお金がかかると知った そしてこれまでの積み立てを一部下ろし、君の進学費用にあてることにしたんだ これまで積みあがってきたこのお金が役にたったということだ 月額五千円って、小さな額だけれど その積み重ねが君の進学に役立った 良かったね この定期積立は今でも積みあがっている 次の出番はいつだろう 小さなことでも それが積み重なったら大きな力になる これは継続したら分かることだ 月額五千円って、小さな額だけれど この五千円のように 淡々と人生を積み重ねていこう 僕が解約されないかぎり 僕も君を見守っているから ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1789日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  月額五千円って、小さな額だけれど

嘘はお見通し(ショートショート)【音声と文章】

「あ、違う、訂正しなきゃ」 「でも、ま、いっか。どうせバレないし。」 ここは歯科医院。 以前、かぶせた歯が取れてしまい、のり子はかかりつけ医に行った。 口のレントゲンを撮り、先生からのお話があった。 「今、飲んでいる薬はないですね?」 「取れたところはしみたりしないですね?」 先ほど記入した問診票を見ながら先生はテンポよく次々に聞いていく。 のり子は先生の「ですね?」にすぐに「はい!」と応える。 それは掛け合いのようなテンポだった。 問診票が終わり、「ナイトガードは毎日されてますね?」と聞かれた時も合いの手を打つかの如く「はい!」とつい、言ってしまった。 その瞬間、「あ、違う。最近、ナイトガードをしないことが多い。」と思った。 「でも、私がナイトガードをしているかどうかなんて、分かるわけないから、ま、いっか。」 のりこは1秒間の間にそう自分と対話した。 すると、先生は顔の構造の図を手に持ちのり子に見せながら説明を始めた。 「これは通常の人のあごの骨。ほら、ここが綺麗に丸くなっているでしょ? そして、この山田さんのレントゲンを見ると、ここ、ここのカタチがとがっているでしょ? これは顎に異常に力が加えられているからなんです。だから、寝る時はナイトガードをしっかり付けてくださいね。」 先生は事前にレントゲンを見て、私がナイトガードをつけないで寝ていることが分かっていたのに、毎日つけていますねと聞いてきたのである。 その時、つい、のり子は「はい」と言ってしまった。 すぐに訂正すれば良かったがつい、のり子は魔が差してしまった。 嘘を言ってもどうせバレないだろうと思ったからだ。 しかし、専門家には嘘がお見通しだった。 先生の説明が終わるまで、嘘をついてしまった自分が恥ずかしくて先生の説明が頭に入らなかった。 自分は平気で噓をつくとても嫌らしい人間だと思った。 嘘をつくつもりではなかったが、はずみで「はい」と応えてしまい、それをすぐに撤回しなかった自分が恥ずかし。 すぐに訂正すればいいものをつい、魔が差して知らんぷりしてしまった自分。 誠実そうなふりをして、平気で嘘をつく人だと思われたかもしれない。 嘘はやっぱりいけない。 それがバレてもバレなくても、自分の気持ちが晴れない。 間違った時は「間違いました」と言える勇気と素直さを持とう。 お会計の際、次回の予約を決める時、のり子は相手の話をきちんと聞いて、しっかり考えてからお応えをした。 はずみで間違った返事をしないように気を付けようとのり子は自分に言い聞かせた。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1751日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  嘘はお見通し(ショートショート)

忌憚のない意見とは何?(ショートショート)【音声と文章】

「これを3日後までに提出してください。」 アキ子に所長から社内アンケートが渡された。 それは会社をもっと良くしたいから皆さんの意見を聞きたい。忌憚のない意見を記入し、それを直接社長へ提出するように、という内容だった。 見ると、「今の給料に満足しているか。」「年収どのくらい欲しいか。」「その金額を達成するために自分は何をするのか。また会社はどうすれば良いのか。」「休日の日数はどうか。」など、3枚の用紙にビッシリ書かれている。 アキ子は一瞥し、それを脇に置き作業を続けた。 アキ子は入社間もない頃を思い出していた。 アキ子はいろいろな会社を転々としていた。 例えばA社は求人票では休日は「土日祝」なのに、「業務に慣れるまでは日曜日のみ休み」となっていた。 B社は、代表者が納品の場に立ち会って、必ず納品されたものに対して罵声を浴びせて苦情を言い、無理な値下げを強要する場面にアキ子は遭遇した。 隣の席の人に聞いたらそれは日常茶飯事のことだと言われた。 また、C社は入社したての頃、産廃法違反でその会社が摘発され多額の罰金を納めることになり、最終的には廃業した。 真剣に就職活動をしているのに、会社の本当の姿は求人票からは垣間見ることができない。 実際、入ってみないと分からないというところだ。 アキ子は今の会社に就職できた時嬉しかった。 地元では名の知れた会社であり何よりもアキ子がやりたい職種に就けたからである。 小学生の頃からアキ子は絵を描くのが好きだった。 その延長線上で高校はデザイン科を選んだ。 学校の授業はとても面白かった。 地元の商店街のポスターを制作したり警察署のマスコットデザインの募集に応募し、見事大賞に選ばれ、アキ子が考案したデザインのマスコットが町中のあちらこちらで見ることができた。 その後、都内のデザインの専門学校に進学し更に知識と技術を磨いた。 地元に就職するためにアキ子は就職先を探した。 しかし、アキ子が求める職種の募集はほとんど皆無だった。 きらびやかな都会で暮らしてきたアキ子にとって地元は時間がゆっくりと進んでいると感じた。 令和の時代なのに地元はまだ昭和の雰囲気が漂っていた。 アキ子は何度も就職活動をしたのちに、不本意だったが「一般事務」として入社していた。 今の会社は冬の時期、会社の前の広い駐車場の雪かきは女性社員の仕事だった。 ひざのあたりまで積もった時はさすがに男性社員もスノーダンプで除雪をするが、普段は男性社員はしない。 また、雪国の家庭では家に大きな灯油のホームタンクがあり、そこから各ストーブへと配管されているのが一般てきなのだが、今の会社は全て持ち運びができるストーブばかりで、つまり、イチイチ灯油をいれなければならない。そのストーブの数は5~6台だった。 重いポリ缶を持ちフラフラしながらストーブの近くに持って行って給油をするのも女子社員の仕事だった。 その間、男性社員は何をしているか。 男性社員はPCに向かって見積書を作成していたり雑談をしている。 男性に頼りすぎるのはいけないが、しかし、小柄な女子社員がふらつきながら重いポリ缶を持っていても男性陣は助けようとはしないその光景がアキ子には信じられなかった。 更に、朝の清掃は「みんなでする」のが当たり前と思っていたが、この会社は女子社員だけしかしない。 アキ子はこれまでの会社でモップを持った男性社員、雑巾で窓を拭く男性社員を見てきた。男女平等で掃除をしていたのである。 この会社の男性社員は掃除の時間、PCに向かっていたり、コーヒーを飲んでいたりしている。 これらはどうしてそうなっているかと言うと、この営業所の所長が決めたルールだった。 ある入社したばかりの男性社員が、灯油のポリ缶を重そうに持っていた女性社員を見て代わりに持ってあげた時があった。 すると、奥の机でPCを打っていた所長が 「A君、それは女子社員の仕事だから、君は自分の仕事をしたまえ」と言われた。 つまり、雑用は全て女性がするべきものだということだ。それがたとえ重いものでも。 アキ子はガッカリした。 しかし、やっと入った会社だ。我慢しよう。 一週間が過ぎた頃、にこやかに微笑む所長にアキ子は聞かれた。 「君も入って一週間が過ぎたが、どうだね、ウチの会社は。忌憚ない感想を聞きたい。」とおっしゃった。 世間知らずだったアキ子は 「はい、この会社は男尊女卑の会社だと思います。」とお答えした。 その後、アキ子は社長に呼ばれた。 社長室でアキ子は 「君はウチの会社が男尊女卑だといったそうだが、本当かね?」 大きなお腹をさすりながら社長はアキ子に聞いてきた。 これはまずい。 本音を言ってはいけない会社なのだ。 アキ子は瞬間的にたくさんの思いが頭の中で巡った。 転職ばかりで親には心配を掛けてきた。 そしてやっと、世間的には良い会社に入れて親も喜んでいる。 もう少し我慢しよう。 アキ子は自分の言葉を撤回した。 社長に謝りその後も仕事を続ける事ができている。 あれから十数年が経った。 相変わらず掃除も灯油の補充も女性社員の仕事になっている。 そして今、「会社を良くするためのアンケート」が配られた。 忌憚ないご意見をお願いします。 その言葉はアキ子には関係のないことだった。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1747日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  忌憚のない意見とは何?(ショートショート)

リストラ(ショートショート)【音声と文章】

「あっ、こんにちは。」 マリは平静を装って佐藤さんに挨拶をした。 マリは書類が入った黒い鞄を左手に持ち、窓口にすぐに出せるようにと、書類一式をクリアファイルに入れそれを右手に持って歩いていた。 玄関の3段だけの階段に足を乗せる瞬間、階段を下りる佐藤さんに会ったのだ。 佐藤さんはマリの顔を見て一瞬、ギョッとした。 その顔を逃さなかったマリは身体を弓矢で射られたような痛みを感じた。 佐藤さんがそんな態度になるのには訳がある。一番会いたくない人に会ったのだから。 マリの会社は経営不振が続いていた。 複数の借入先の中で、メインバンクから「このままだとこれ以上、お宅には協力できません」と言われていた。 つまり、合わせて億を超える金額になる短期借入金と長期借入金を一気に返せと言うことだ。 それは会社が倒産することを意味する。 社長はそれだけは回避したいと考えた。 どうすればいいか。 ここまで読まれたあなたは、会社の経営を立て直すために一番に思い浮かぶことが何なのかお分かりだろう。 経営不振の対策で、一番簡単なのが「人件費の削減」である。 つまり、従業員の給料を減給したり、賞与を支給しなかったり、更にはリストラも考えられる。 それによって、毎月の給料は減る。給料が減るということはそれに伴う社会保険料の負担も少なくなる。 更に翌年度には雇用保険料・労働保険料も減る。 マリの会社では「業務改革委員会」が発足し、これからのことについて話し合いが連日行われた。 そして、役員報酬の10%カット、従業員は当分の間、昇給も賞与もなしにすることが決まった。 また、対外的なアピールのために毎年行っていた社員旅行も当分の間、中止することにした。 しかし、人件費のカットはそれだけではなかった。 今回、会社としては初めて「リストラ」をすることになったのだ。 そして、製造部門から数名、候補者が決まった。 会社はその数名と個別に面談を繰り返し、本人に納得してもらい、書面を取り交わして、「会社都合による解雇」ということで退職することになった。 その件を社長から聞かされたマリは心を痛めた。 リストラに選ばれた数名は、特に素行が悪い訳でもない。 たまたま、上層部が選んだだけだから。 マリからしたら、「あなたが手を挙げてお辞めになったら」と思える上司もいたが、それは口が裂けても言えない事だ。 人事課のマリはリストラに選ばれた方々の退職手続きをしたが、「自分はリストラされなくて申し訳ございません」という思いしかなかった。 マリはハローワークに書類の手続きに来た。 入り口までの階段を上がろうと足を上げた時にリストラされた佐藤さんに出くわしたのだ。 マリはこれまで、退職された元従業員の方に街中などで偶然お会いすることはあった。その時は普通に接することができたが、佐藤さんの場合、マリはどんな顔で挨拶をすればいいのかとっさの判断ができなかった。 佐藤さんもギクッとした態度になったのは仕方ないことだ。 しかも会った場所がハローワークだ。 佐藤さんは複数の求人票を片手に下を向きながら歩いていた。 一方マリは制服を着て、私は求職者ではないという雰囲気で闊歩していた。 同じ会社で一時期働いていた二人が再開したのがハローワークだった。 しかも相手の辞め方が通常ではなかったからマリは心臓をギュッと握られる思いがした。 私が残ってすみません。 その気持ちだった。 マリの会社は人件費の他に、交際費・諸会費・広告費・材料費・外注費・リース料・保険料などの見直しをした。 役員の生命保険は大きく変更した。 会議室は使い終わったら電気を消す。廊下は歩き終わったら電気を消す。 また、従業員用のお茶は低単価のものにし、白黒と比べて10倍の単価になるカラー印刷は極力しないと決め事をつくり、小さいことまで皆で徹底して経費削減に努めた。 一時期、どうしてもお金が足りなくて給料日に給料を支給できそうもない時があった。 その時は上層部の方々を呼び、給料日は3分の2だけ支給し、売上金が入金された後にあたる5日後に残りの3分の1を支給した時もあった。 更には販路を拡大して売り上げを伸ばし、数年後に会社は奇跡のV字回復を果たした。 数年後に創立記念祝賀会が久しぶりにホテルで行われた。 マリの襟元のピンクのフリルが華やいだ場にふさわしい。赤いリボンを胸につけた受付係のマリはお取引先の対応に追われていた。 式典開始まであと30分という時が一番忙しかった。 いつもより頬紅がピンク色で口角を上げ終始笑顔で対応していたマリは受付でごった返す中に、ある人物がその人波をチラリと見ながら通り過ぎる姿を見たような気がした。 それはあの佐藤さんに見えた。 今、会社が存続するのは在籍する者の努力だけではない。リストラされた数人の方々の犠牲の上に私たちの今の生活が成り立っているのだ。 私たちはそれを忘れないようにしようとマリは思った。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1746日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  リストラ(ショートショート)

暗闇の記憶(ショートショート)【音声と文章】

ノゾミは今月もまたこの作業に取り掛かった。 ここは2階の財務室。 机の上には財務専用のブラウン管のPCがある。隣にはA3まで印刷できる大型の複合機がある。 他には歴代の偉い方々の遺物が大きな机の上や開くこともない書棚の中に置かれている。 どうみても物置にしか見えないその部屋でノゾミはPCの電源を入れた。 電源を入れてから使えるまでには時間がかかる。 今どきこんな古いPCを使っているところがあるんだと、転職して来た時に驚いた。 PCが起動するまでの間、ノゾミは周りの整理を始めた。 ドットプリンターで出力された誰かの書類が新しく山積みされていた。 「も~!ここは物置じゃないんだから!」 ノゾミはその束を奥の方に押した。 PCの画面が明るくなった。 ノゾミはかなり厚みのあるキーボードを叩いた。それはしっかり押さないと押したことにならず入力ミスをおこす、かなり旧式の代物だ。 押す力が必要だから、このひと作業が終わった頃のノゾミの指は疲れ切ってしまうほどだ。 ノゾミは着ていたダウンコートの前のファスナーを首の上まであげ、寒さをしのいだ。 今は1月。 外は20㎝以上の積雪だが、この部屋に暖房は無い。 この部屋は会社には「無かったことにしたい」ものが置かれているから、暖房機器を置こうという配慮がされていない。 暗い部屋でPCの光が無表情なノゾミの顔に映る。 ノゾミは暗い気持ちで気乗りのしない毎月の作業を開始した。 ノゾミは1年前にこの会社に転職して来た。 「○○といえば△△株式会社」と言われるほどの、地元では有名な会社に入社することができ、ノゾミは嬉しかった。 家族も喜んでくれた。この間は、姉のご主人様から「いいところに入れたね。」と喜んでくれた。 ノゾミは希望を胸に入社した。 しかし、入社して3か月後にノゾミは天から地へ一気に突き落とされた感じを受けた。 「毎月、それをするのか。」 ノゾミが転職した会社は複数の金融機関から借り入れをしていた。 だから毎月、各金融機関に試算表と借入金の内訳書を提出している。 それはどこにでもありえることである。 それ自体は何でもない。 問題はその借入金の内訳である。 事務所は1階にあり、PCはそれぞれの机の上にある。普段は自分の机で仕事をしている。 しかし、ノゾミだけは月に1回、2階の財務室でその内訳書を作ることになった。 内訳書ができた。 ノゾミはそれを「提出用」「会社控用」「自分用」に3枚プリントする。 それが終わると内訳書の中の金額を動かしてまた3枚プリントする。 それが終わったら更にまた内訳書の金額を動かし3枚プリントする。 出力された書類をそれぞれ見直す。 先月分からのつながりに間違いはないかを入念にチェックする。 そして会社控えをファイリングする。 ファイルを開くその手がかじかんでファイルを落としそうになった。 「来月は指先が出ている手袋を持って来よう。」 ノゾミはPCの電源を落とした。 ダウンコートを着ているが真冬に暖房なしの部屋にいて、身体は芯から冷え切ってしまった。早くあの温かい1階に戻ろう。 ノゾミは薄い布をPCに掛けてその部屋を出た。 「こんなこと、いつまで続けなければいけないのだろうか。こんな会社だと分かっていたら絶対入っていなかったのに。」 ノゾミはそう思いながら部屋に鍵を掛けた。 その会社の借入金の内訳には実在する金融機関の他に「その他」という項目がありそこに金額が載っている。 そして決算書には「その他」は載っているのに各金融機関への毎月及び決算の時の内訳書には「その他」がない。 どういうことかというと、例えばA、B、C、3つの金融機関があるとする。 A金融機関に提出する内訳書には、「その他」の分をBで調整する。 Bに提出する分はCで調整し、Cに提出する分はAで調整する。 このように提出する先の金融機関に合わせて他の金融機関の残高を調整して「その他」を記載していない内訳書を作っているのである。 毎月の返済額を間違わないように、先月から今月にかけて、辻褄が合うように作る。 それを数年前から始めたために、今さら正しい内訳書を提出することができなくなっている。 その理由を言えないために会社は数年にわたりこの作業を続けていきたのである。 ノゾミが入社し、3か月が過ぎた頃にこの作業を社長から指示された。 恐らくそれまでの期間、ノゾミの人格を見ていたのだろう。 そして、この人なら大丈夫と信じて社長がノゾミにその作業の指示をしたのだろう。ノゾミが入社してからの3か月間はノゾミの上長がそれをされていたのを後で知った。 上長が長い時間、席を外している時があり、どうしたのかなと思っていたが、あの時、2階にいたのだと後で察した。 ノゾミは社長のお話をお聞きして、ショックだった。 毎月、不正行為をしなければいけない。 曲がったことが嫌いなノゾミにとってそれは苦痛でしかなかった。 辞めようかな そう思ったが、やっと就職できた会社である。 家族も姉弟も喜んでくれている。 しかも地元でも名の知れた会社だから、その会社を僅か3か月で辞めたという事実は、自分にとってプラスにはならない。 「あの会社を僅か3か月で辞めたということは、この人は何か問題があるのかもしれない。」と思われて、次の就職試験の時に不利になるかもしれない。 いろいろな思いがノゾミの脳内を去来した。 そしてノゾミは会社を辞めないと決めたのである。 心を「無」にしよう。家族の為、自分の生活のため。そう割り切って我慢することにした。 最初は、「社長からの指示で仕方なくやっているのだから、私には罪はない。」とノゾミは自分に言い聞かせていた。 しかし、月日を重ねる内に、これは会社の指示であっても、それを拒否しなかった自分に罪があるのではないかと思うようになってきた。 毎月、自分との対話をその部屋でしていた。辞めるなら早い方がいい。でも、それを言い出す勇気がない。 ずるずると月日は流れ、2年目が過ぎた頃、ノゾミは手術を伴う入院をすることになった。 後で考えると、それはノゾミにとって希望の光だった。 そして退院して1か月が過ぎた頃に「体調がどうしても思わしくないので」という理由でノゾミは会社を辞めた。 あれから10回目の冬を迎えた。 窓の外には車にこんもり積もった雪が見える。 今の勤務先ではあのような不正はない。 ノゾミは正しいことを正しくできる今に感謝している。 あの会社は 今は存在しない。 ノゾミにとってあの数年間は暗闇の記憶である。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1745日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  暗闇の記憶(ショートショート)

波打つ書類~パワハラ~(ショートショート)【音声と文章】

「あ!危ない!」 のり子が水を飲もうとタンブラーに左手を伸ばした時、服の袖が左に置いてあった書類に引っかかり、その書類がずれて、つい先ほどたっぷりな水を入れてきたばかりのステンレス製のタンブラーが傾いた。 書斎の床はあっという間に水浸しになった。 机の引き出しから床へポタポタと水がしたたる。 机の上に置いていた書類が水にぬれて波立ってしまった。 ピンクの付箋は触れたところだけ色が濃い。 靴下にも少しついて足が冷たい。 雑巾を持って来て床や引き出しを拭く。 想像以上に濡れてしまった。 大事なデータが入ったSSDには水がかからなかったのは不幸中の幸いだった。 気を付けよう。 床を拭きながらのり子はふと、20年前の美智子さんのことを思い出していた。 当時、勤めていた会社には女性4人、男性1人が勤務していた。 のり子たち女性4人はとても仲が良かった。 その中でちょっとふくよかで、ころころと笑う美智子さんがいた。 彼女はのり子より2年遅くその会社に転職してきた。 明るい性格の彼女はすぐに職場の雰囲気に慣れていった。 ある日、彼女はトイレに頻繁に行っていた。 お腹が弱いのり子は美智子さんのことを案じた。 「そういう日もあるよね。」 そう思っていた。 しかし、何度目かのトイレから戻った彼女に社長は 「トイレは〇回までにしてください。」 と苦々しい顔でおっしゃった。 私たち女性は耳を疑った。 人間だもの、体調が思わしくない日もあるでしょう。 特に女性は毎月、体調の変化があるのに。 社長の心無い言葉に私たちはがっかりした。 その後、なぜか社長は美智子さんに事あるごとに小言を言うようになった。 それは私たちからするとどうでもいいようなことが多かった。 鼻をかむ時はもっと静かに。 付箋の貼り方が雑。 あまり笑わないように。 こんな、どうでもいいことを社長は美智子さんに何度も言っていた。 社長だったら何を言っても許されるのか。 あの頃、男性社員が一人いた。 女性陣からみると、彼こそ社長から注意を受けるべき人物だと思う。 彼は居眠りの常習犯だ。 あなたは一般的な事務椅子の背もたれが、45度近く右に曲がったのを見たことがあるだろうか。 彼は背もたれによりかかりいつも居眠りをしていた。 巨体の彼を支えていた背もたれは、身体をねじって寝ているためにどんどん曲がって行って、どうしたらそうなるのかと思うほど、椅子の背もたれは45度近く右に曲がってしまったのだ。 普通の人だったら彼を注意してあたり前と思う。 女性社員の鼻をかむ音を注意する、こそくな社長はどうしたか。 「最近飲んでいる薬に、眠くなるものが入っていると言っていたなぁ。」 と誰に言うでもなく、私たちに聞こえるようにつぶやき、そして胸に差していた櫛を出して寝ている彼の後ろに立ち、寝ぐせで絡まっている彼の髪をすいた。 のり子たちはそんな社長と息子を心から軽蔑していた。 当時、女性社員だけで近くの喫茶店に行き、いつも社長や息子へのうっぷんを晴らしていた。 ある日、美智子さんがPCの近くに置いていた飲み物を倒し、PCを交換しなければならなくなった。 誰にでも起こりえる事故である。 美智子さんは平謝りしたが社長は美智子さんを強く叱責した。 (あんたの息子はどうなのよ。) のり子たちの心の中は真っ暗だった。 その後、美智子さんは社長からの執拗な言葉に耐えられなくなり辞めていった。 その後、一人、また一人と辞めて行き、のり子が最後に辞めてその事務所のメンバーは一新された。 その後、仲良し4人が集まって近況を報告しあった。 美智子さんは出逢った当時と同じくコロコロと笑う素敵な女性に戻っていた。 テーブルの脇には水で濡れて凸凹になった用紙がたくさんある。 また印刷し直せば済むこと。 美智子さんたち、どうしているかな? また会いたいな。 乾ききっていない波打つ用紙を眺めながら のり子は美智子さんたちと過ごした日々を思い出していた。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1743日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  波打つ書類~パワハラ~(ショートショート)

やってみないと分からない(ショートショート)

高橋「部長、僕は今のプロジェクトをうまく成功させることができるのか心配で、それを考えると夜も眠れません。」 高橋はそう言いながら、大根に箸を刺した。 真ん中に突き抜けるように刺した大根の丸い穴は中まで醤油の色だった。 高橋はふーっふーっとして、歯並びの良い口を開け、豪快に一口で口の中に運んだ。 高橋「これまで何度かお客様のA様と電話やメールなどでやりとりをさせていただきました。 その数回のやり取りでA様はとても繊細な感覚をお持ちだということを感じています。 僕はA様のご要望にそえる様に精いっぱい対応させていただいているつもりですが、僕はもう駄目かもしれません。」 部長はネクタイを軽く緩めて言った。 部長「君はとても一生懸命なのは毎日の行いから分かっている。私から見ても君は立派に業務を遂行している。何がもう駄目なのかな?」 高橋「はい。来週の火曜日に、A様との二度目の面談があります。 僕はこの会社に転職してきて3年になります。 これまでたくさんの仕事をさせていただきましたが、今回のような大きな案件は初めてです。 何をどのように事を進めればよいのか、毎日手探り状態です。 自分なりに過去の似たような記録を見たりしていますが、イマイチ、ピンときません。 次回の面談の時に、どんなご要望やご質問が出るか予想もつきません。 面談中にA様からのご質問に対して的確にお答えできる自信が全くありません。僕は駄目な人間です。」 部長「君がA様の質問に的確にお答えできなかった場合、何が起こると思うかな?」 高橋「はい。A様からのご質問に対してうまくお応えできず、しどろもどろな対応をしてしまうのではないかと思います。 そしてそれが呼び水となって、その後のご質問に対しての回答も満足のいく内容にならない気がします。 すると、きっとA様は僕に、いや、この会社に対して不信感を抱かれると思います。 僕は駄目な人間です。 小さなことですぐに落ち込んでしまう小心者なんです。 僕は社会人としての覚悟がないんです。 何をやっても楽しくないんです。 僕は意気地なしで、すぐにへたれて、これでは駄目だと思います。 仕事を通して自分が幸せになれる将来なんて、想像できないです。」 高橋は自分の思いを一気に話した。 部長は時々頷きながら静かに聞いていた。 そして高橋に質問した。 部長「A様が君に対して不信感を抱かれるのは、いきなり不信感を抱かれるのかな?」 高橋は天井を見上げて少し考えた。 その時初めて周りのざわめきが耳に入ってきたように感じた。 これまで自分のことしか見えていなかったことに高橋は気が付いた。 高橋「いいえ、1回目で少し不信感を抱かれ、それが何度か重なって、決定的なものに変わる、ってところでしょうか。」 部長「1回目で不信感を抱かれて、それが何度か重なり決定的な不信感になるということ? 君のその言葉で、何か気づいたことはないかな?」 高橋はお皿の中のゆで卵を箸でころころ転がしながら考えた。 しばしの沈黙があった。 高橋「んーん。」 そして、卵に箸を刺して高橋は今までとは違い、ニヤリとしながら元気に言った。 高橋「やってみないと分からないです!」

重なった偶然(ショートショート)【音声と文章】

『今日は何が食べられるかなぁ。 どんなところかな。楽しみ~。』 より子は歩く姿をショーウインドウでチラ見しながら足早に歩いた。 今日の為に美容院で髪の手入れをした。 ネイルも綺麗に施されている。 『今日も綺麗だね、私。』 心の中でつぶやく。 予定の時間まであと3分。 ふぅ~、間に合った。 『遅くなりました。今、約束の場所に着きました。グレーのバッグに紺色の傘をもっています。』 より子はラインを送り待ち合わせの銅像の前に立った。 『私はもう少しでそちらに着きます。』 すぐに相手から返事が届いた。 その返信の早さにより子は誠実さを感じた。 今日は『一緒にお食事をする』というアプリで知り合った人と昼食をとる約束になっていた。 お互い顔は知らない。 何度かのやり取りをしてなんとなく気が合いそうだったから今日、お会いすることになったのだ。 これまで数回のやりとりの中で、より子がどんな女性なのかを知らせていた。 身長は165㎝くらいで学生時代は運動部に所属していたから中肉中背、髪はロング。 20代前半。金融機関に勤めている。 一方、相手は30代前半、身長175㎝くらいの海上自衛隊員。 左の腕を内側にねじって腕時計を見る。 約束の時間になったが彼らしき人はまだ来ない。 より子は目にゴミが入ったようで目がゴロゴロしてきた。 公衆の面前で鏡を見ることははしたないので、より子はその銅像の後ろへ少しの間隠れることにした。 後へ移動する際、少し小太りの40代くらいの女性とすれ違った。 より子が銅像の陰で目のあたりを見ていると彼からラインが届いた。 『君がそんな嘘つきだとは思わなかった。今日のことはなかったことにしたい!さよなら』 えっ! どういうこと? より子は鏡をバッグに収め、銅像の陰から出てあたりを見回した。 あぁ、そうか。 より子は全てを把握した。 より子が銅像の前から移動した時にすれ違った40代くらいの小太りの女性が銅像の前に立っていた。 彼女の持っているバッグと傘の色が、より子と同じ色だったのだ。 より子と同色ではあったが、より子は無地のバッグでその女性はいかにもブランド品を主張するバッグだった。 ブランド品のバッグは残念ながら彼女の服装とうまく調和していなかった。 より子はブランド品にはこだわりはない。それよりも自分に合っているかを基準にしている。 その女性はただ髪が長ければいいというような感じで、手入れが行き届いていないロングヘアだった。 たまたま、似たような格好の女性二人の場所が入れ替わっただけ。 そんな彼女を遠目で見た相手が、顔が見えないアプリを悪用して、都合の良い嘘をこれまでより子がついていたと相手は勘違いしたのだろう。 ただ、いろいろな偶然が重なっただけ。 その女性がどんな格好をしていようがより子には関係のないことだった。 より子は一瞬、事の次第を話そうと思ったが あえてそれをしなかった。 これはお互い縁がなかったこと。 追いかけるほどの縁ではないのだ。 それだけのこと。 「さぁ、何食べようかな。」 枯れ葉がより子の傘に飛んできた。 今の気持ちを暗示するようにより子はその葉を傘の先で振り払った。 先ほどまでのジトッとまとわりつくような空気はなくなり、サラリとした風が頬を撫でる。 ロングヘアの先が肩より後ろでなびきながら、より子は雨上がりの歩道を大股に歩き始めた。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1731日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad 

「それ、要らない」って言えない(ショートショート)【音声と文章】

「あぁ、まただ」 のり子は残念な気持ちになった。 夕刻になり女性社員は事務所の片づけを始める時間になった。 のり子は今週、共有の手拭きのタオルを洗う係になっていた。 朝、汚れたタオルを回収し、洗剤とお湯を入れた大きな洗面器の中にタオルを浸しておく。 そして日中の自分の都合の良い時にそれらを洗って乾かすことになっている。 のり子は日中、気が向いた時にそれをしていた。 今日は仕事が充実していてそれは夕方の片づけの時にしようと思っていた。 しかし、片づけの時間になり給湯室に行くと洗面器は既に片付けられていた。 隣の部屋を見るとタオルがハンガーに掛けられている。 「まただ。」 のり子は一瞬、怒りが湧いてきたがすぐにその火消しにまわった。 怒ってはいけない。相手は善意でやって下さったのだから。 そのタオルは同僚のA子さんが洗ったのである。 A子さんは洗面器に入れてあるタオルを「好意」のつもりで洗っているのだ。 「それ、しないで。それは今週、自分の役割なんだから。」 そう、ひと言、言えば済むことなのだがのり子は言えない。 棘のある言い方をしてA子さんを傷つけたらどうしよう。 そう思うと言えないのである。 気の小さい、勇気がないのり子なのだ。 A子さんはたぶん、忙しそうにしているのり子の代わりに洗ってあげていると思っている。 しかしそれはのり子にとって余計なお世話なのである。 仕事中にタオルを洗うことがのり子は嫌いではないのだ。 洗剤を付けてタオルを揉んでいるとみるみる白くなっていくその過程がのり子は好きなのだ。 絞った直後のタオルは生地がこわばっている。 しかし、絞ったタオルを広げてバフッ、バフッと振るとタオルのひとつひとつのループが立ってくる。するとタオルがふんわりと乾くのだ。 その出来栄えを感じたくてタオル洗いが楽しみなのである。 日中にそれをするのは気分転換になり、のり子はある意味タオルの当番の週を楽しみにしているのだ。 「それ、やらないで」 「それ、要らないから」 「はっきり言って、それ、余計なお世話なんだから」 「私、タオルを洗うのを楽しみにしているの」 普段あまり人と話をすることが少ないのり子は、A子さんを傷つけない言い方をする自信がないのだ。 たったこれだけのことなのに、言えない小心者ののり子なのである。 A子さんにそのタオルのことを言えないのには別の理由もあった。 どちらかというと、そちらの方の理由が大きいかもしれない。 A子さんはなぜか上長からのウケが悪い。 A子さんが上長に話をしようとそろりそろりと近寄って行くと A子さんが声を発する前に上長は 「何!」っと、キッとなって言う。 話す前からそういう態度をとられるからA子さんはついオドオドしてしまう。 その自信のなさが更に上長をイラつかせるようだ。 二人のやり取りがBGMも何もない事務所内で聞こえる。聞きたくなくても聞こえてくる。 棘のある上長の言葉と、しどろもどろになっているA子さんの声。 猛獣に睨まれたネズミの構図。 上長は必要以上にA子さんに毒を吐く。 そんなA子さんをのり子は気の毒に思うのだ。 上長の毒にやられたA子さんはショボショボと自分の席に戻る。 事務所内は相変わらずPCを打つ音だけがしている。 「いくら何でもあの言い方はないだろう」 恐らく普通の人だったらそう思うだろう。 こんな時、A子さんの自己重要感はゼロになっているかもしれないと、のり子は心配になるのだ。 そんなA子さんはタオル洗いなど、雑用を積極的にしてくださっている。 タオルを洗うことで間接的に会社に尽くしていると思いたいのではないかとA子の心中をのり子は察する。 だから、のり子のタオルを勝手に洗われてものり子はA子さんに「それ、やらないで」と直球を投げられないのだ。 それではタオルを洗うことを全てA子さんに任せてしまえばいい。 ここまでお聴きのあなたはそう思うかもしれない。 しかし、いろいろな雑用をしてくださるA子さんに更に雑用をお任せするのは傲慢だとのり子は思うのだ。 誰か一人に雑用が偏らないためにいろいろな係を決めているのに、結局一人に偏ってしまうのは、のり子としては心外なのである。 のり子としてもちょっとした気分転換の理由になるタオル洗いは、嫌いではない雑用である。 「気持ちは分かるがやらないで」 それをどう言えばいいのか、そんなちょっとした言葉選びにも躊躇する小心者ののり子である。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1730日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  「それ、要らない」って言えない(ショートショート)

娘の遅い帰宅(ショートショート)【音声と文章】

けい子は真っ白な世界からふわぁっと「今」に戻ってきた。 時計は6時を回っていた。 「あー良く寝た!」 けい子は両手を上げ、その言葉を自分に言い聞かせるように言った。 人の脳は想像以上に単純なのである。 「良く寝た」という自分の言葉を感知すると脳は「良く寝たんだ」という情報を体に送るのだ。だから、自己暗示も大事だ。 昨日は何があったっけ? けい子はクリーム色の天井を一瞬見つめ、すぐに目を閉じて毛布を鼻のあたりまでかけてうとうとしながら思考を巡らした。 昨夜は調べ物をしていて結局解決しなかった。 思うようにならずにふてくされ、けい子は寝てしまったことを思い出していた。 今日こそは、とけい子は自分を奮い立たせた。 けい子は起き上がり左の靴下を履いている時にふと、気が付いた。 そうだ! 昨夜、娘のミズハはいつもの時間が過ぎても帰ってこなかった。 気にはなったが娘ももう大人だ。 心配はいらない。 けい子は連日の寝不足がたたり、週末の昨日は早く床に就いたのだった。 果たしてミズハは帰ってきているだろうか。 交通事故などに遭遇していないだろうか。 いや、交通事故だったら警察から連絡が来るだろう。 交通事故ではないとしたら? 何らかの原因で駐車中の車の中で気を失っている? 突然、胸の中でモクモクと不安が沸き起こり今さらながら心配になってきた。 けい子は急いで部屋を出て階段を下りる。 階段を下り切ったところに玄関があり、そこにミズハのスリッパがなければ帰ってきていることになる。 どうか、スリッパがありませんように。 けい子はごくりと唾を飲み、階段の手すりの凹みの感触を感じながら慎重に階段を下りて行った。 そして、いつもスリッパを置いているあたりに目をやった。 スリッパはなかった。 ふ~っ。 と言うことは帰っているということだ。 けい子は軽く息を吐いた。 けい子は玄関に脱ぎ捨ててあるミズハのブーツを揃えようと持ち上げた。 すると靴底にはまだ白い雪がついていた。 と言うことは帰宅してそれほど時間が経っていないということだ。 何はともあれ、無事帰宅してくれ良かった。 けい子はリビングのカーテンを開けた。 すると物干し台の隣にミズハの軽自動車が置いてあるのが見えた。 けい子の家の車は全てを車庫に入れている。 几帳面なミズハが車を車庫に入れていないということは、それだけ遅い時間に帰宅したことを物語っている。 自動で開閉する車庫のシャッターは経年劣化で上げ下げの時にキュルキュルと音がする。 日中はそれほど気にはならないが、月も眠る時間帯に鳴るその金属音は、不快だと思う。 そのためミズハは遅く帰宅した時は、車を車庫には入れずに庭に置くことがある。 そういう心配りをする娘なのである。 何はともあれ、けい子は娘が無事であることを知った。 けい子はリビングのソファーに座り本を読み始めた。 起きてから1時間、読書をするこの時間がけい子には至福のひと時である。 ミズハが階段を下りてくる音が聞こえてきた。 ん? 何かがおかしい。 その音は、いつものミズハの足音とは少し違っていた。 そして13段目を下りきったところでけい子は自分の予感が確信に変わり、ミズハの方を振り向いた。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1724日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad 

思いをシュレッダーに(ショートショート)【音声と文章】

「では、これから 〇〇銀行の新年会なので私は上がります!」 3時間近くの重役会議が終わり社長室に駆け込んできた社長は、右手にブレザーを持ち、社長室の電気を消し、事務所の皆に向かってそう言い放ち、脱兎のごとく会社を出られた。 えーっ! のり子はあいた口がふさがらなかった。 そうか。どおりで。 ほとんど毎日、残業されている奥様が今日は定刻になって「お先しま~す」とグッチのバッグを小脇に抱えて帰って行かれた理由がその時分かった。 のり子が今手掛けている案件は、社長に判断をいただけないと次に進めない段階にきている。 その件について、奥様に「CC」で、社長宛のメールを送っていた。 一日待っても社長から返信が来なかったので、のり子は題名に注意が行くように変えて再度メールを送った。 しかし、返事は来なかった。 今日こそは社長にその件の回答を聞こう。 直接、会議が終わったらすぐに社長室に行こうとのり子は決心して、残業しながら重役会議が終わるのを待っていた。 今の社長に替わって仕事のやり方が全く変わってしまった。 これまでのり子は、前社長の秘書的立場にあった。 前社長は超アナログな方で、思っていることは口頭でおっしゃる方だった。 だから社長室に呼ばれると1時間以上戻れないことは日常茶飯事だった。 PC操作ができない社長は、作ってほしい書類は全て口頭でおっしゃって、のり子がそれを作り、5~6回、社長の添削を受けた後に書類が出来上がる、そのような状態だった。 社長は今考えている事をいつものり子に話をされていた。 例えばそろそろ高所作業車を買い替えるとか、あの取締役の生命保険の金額を変えるとか、来年の人事のことなど、のり子に話をされていた。 社長が何を思われているかをのり子はいつも聞かされていたから、今このことをしているのはあの件に繋がるのだなと、会社の動きを察知しながら仕事をしてこられた。 しかし、70代の前社長から50代の新社長になり全てが変わってしまった。 一番変わったのが、社長は何を考えていらっしゃるのかをのり子には言わない事だ。 そして、社長に直接のり子が接することはできなくなった。 前社長の時はのり子とのり子の直属の上長にいろいろなことを話された。 しかし、新社長はのり子の直属の上長だけに全てを話し、のり子には話がこないことがほとんどになった。 これまではのり子から社長に直接お聞きしていたのが、社長が替わられてからは、のり子が直属の上長へ「この件で社長にお聞きしたいのですが」とお伺いを立てる。そして、その内容を上長が社長へ話し、社長から上長へ、上長からのり子へという流れに変わった。 直属の上長はとても忙しい方で、すぐには社長に聞いてくださらない。ジリジリとした思いでのり子はいつも待っている。 また、口頭では質疑の内容が残らないから、社長宛にメールをするようにとも言われている。 その際は必ず、直属の上長に「CC」で送るようにという条件付きである。 つまり、のり子の行動を全て直属の上長に報告するようにとのことなのだ。 口頭で言ってもすぐには答えが来ない。 メールを送っても、その日に返信が来ない。 「私には一日に100件以上のメールが来ているから、見逃すことが多いんですよ。」と社長がおっしゃっていたが、そりゃそうだ。 口頭で済むことでもメールにするようにしているからだ。 長引いている重役会議が終わったらすぐにお聞きしようとのり子は待ち構えていた。 しかし、社長は帰られた。 今日もこの案件は止まったままになってしまった。 明日こそは、社長のお返事をお聞きしよう。 たった、イエスかノーの言葉だけなのだ。 それを聞くことができず数日過ぎてしまった。 経営者にもいろいろなタイプがある。 のり子はこの会社に入って3人の代表者を見てきた。 くるりと振り向き、キャビネットの中からファイルを取り出す。 中には平成のものがあった。 これまで大事だと思ってファイリングしてきた書類。 もう、要らないかもしれない。 人を変えることはできない。 自分が変わるしかない。 のり子はその古い書類をシュレッダーにかけた。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1723日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。どちらでも数分で楽しめます。#ad 

「私のこと好き?」(ショートショート)【音声と文章】

※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1722日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。どちらでも数分で楽しめます。#ad  あなた:「俺は〇〇(私)が一番好きだ」 わたし:「何言ってんの?!」 一升瓶の半分が無くなり、ろれつが回らなくなったあなたは必ずそう言う。 私は言われてまんざらでもないが、これ以上黙っていたら、あなたは何を言い出すか分からない地雷の様な人。 この間なんて、酔ったあなたは二人にしか知りえない事を平気で口に出していた。 その時、周りには誰もいなかったのが幸いだった。もしも思春期の娘たちに聞かれたらと思うとヒヤリとする。 白のシャツがお風呂上がりで少し汗ばんでいる。 あなたは背中を丸めて椅子に崩れるように座り、飲んでいるのか寝てるのか分からない。 食べるつもりで自分でよそったご飯には箸が2本、立っているだけ。 そんな不作法は娘たちの立派な反面教師になっていた。 当時のことを振り返って娘たちは口々に言う。 「あの頃、お父さんとお母さんののろけ話を聞かされていたこっちの身にもなってよ。」 私たち二人のやりとりが思春期の娘たちには、流行りのラブストーリーのドラマを見るよりもドキドキしていたのだと、今になって知る。 「俺は〇〇(私)が一番好きだ」 この言葉は 「俺のこと好き?」 と暗に聞いていたと思う。 その答え、言わなくても分かってるでしょ? あなたの気持ちは知っていた。 だからあえて私は言わなかった。 一本の白い煙がまっすぐ天井に向かって上っていく。 壁に飾った複数の写真の中の一枚を見上げて私は問う。 今でも「私のこと好き?」 今回は、三羽 烏さんhttps://note.com/miwa_karasu の企画に参加させていただきました。 ↓ https://note.com/miwa_karasu/n/n286e4b01811c 三羽さん、素敵な企画をありがとうございます!

叶わぬ思い(ショートショート)【音声と文章】

※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1721日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。どちらでも数分で楽しめます。#ad  おはようございます。 山田ゆりです。 今回は 叶わぬ思い(ショートショート) をお伝えいたします。 「大好きです」 そう言っても大丈夫な関係 それを言っても絶対 それ以上進展する心配がない相手だから堂々と言える 「大好きです」 奥歯まで歯並びの良い真っ白な歯が見えるほど大きな口を開けて君は笑う それに合わせて僕も笑う 君は僕の本当の気持ちを知らない 知っていたらそんな無防備な笑い方はできないはずだ 僕は君の笑顔を見ることができて幸せだと思う そんな君をずっと見ていたい 君を困らせてはいけない 「大好きです」 本心なのになぜか笑いに変えられてしまう言葉 まぁいいさ これが僕の本当の気持ちなんだから 今回は 叶わぬ思い(ショートショート) をお伝えいたしました。 本日も、最後までお聴きくださり ありがとうございました。  ちょっとした勇気が世界を変えます。 今日も素敵な一日をお過ごし下さい。 山田ゆりでした。 ◆◆ アファメーション ◆◆ .。*゚+.*.。.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。 私は愛されています 大きな愛で包まれています 失敗しても ご迷惑をおかけしても どんな時でも 愛されています .。*゚+.*.。.。*゚+.*.。゚+..。*゚+