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漬かれた憑かれた疲れた

私生活、表向き、実際体感している感情や表情にはこれっぽっちも影響はないけど裏側にあるもの、例えば恋人がいるのに初恋の人のことが忘れられない、というのは別に今の恋人がその初恋の人を超えられないからとかではなくて一種の別次元のような、記憶の引き出しが複数個あるなら「思い出」という引き出しにはいってる。恋人が好きというのは変わりようがないのに、本当に好きなら思い出したりしないって人間とは僕は仲良くなれる気がしない。人は思い出を保有して生きている。

恋人を例にとったけど、「思い出」にカテゴリーされた人物、出来事、物、音楽、その他芸術など『それがあったから今がある』という変わりようのない事を僕等はたまに引き出しを開けて眺めたりしてる。残念ながらそれらは保有を諦めても捨てる事は至難の業で、時として苦しめるし傷つける。思い出と名前をつけたが、それが綺麗なことだけではない、人によっては黒歴史と呼ばれるし、明暗どちらにしろ人生を揺るがす出来事は頭の引き出しにぱちんっとしまっている。

過去に生きているわけではない、今を生きているから今を見るために過去を掘り返す。わかってるすべて正しいことなんかではない、一歩間違えたら停滞だったり認識相違する話だから。

ただ叶わないと知ってから「もしも」の世界線について思い描くようになった気がする。それは「将来はこうなって、、、」という青く早熟なものではなく「あの時ああしていれば」という通過したからこそ言える「もしも」だ。そこに込められる気持ちが綺麗なんて言えたもんじゃないけど、汚い薄汚れた人間心理を寧ろ美しいと思っている。僕はそのたびに大人になりたいと呟いてた。大人はこんな事を一通り経験して、答えをだしたり落ち着いたりするんだろうなって思っていたから。

というふうにややこしく、長ったらしい文章を書いたけど大抵の人間はそれを表に見せず、時に無関心を装ったり、豪快にごちゃごちゃうるせぇとふっとばしたり、みんなそれが上手だ。

だから、酔っ払った時とか、夜公演でコーヒーを飲みながらとか、そんな今ならば、という時に隠した表情を見せてくれる時、僕は人間くさくって心動かされる。

snsに漬かれて、憑かれて、疲れてしまった人間達がこぞってTwitterやインスタほど気軽にアクセスできないわざわざページまで飛ばないといけないブログに本音をこっそり書いているのはそれらに似ている気がする。オープンなTwitterだからこそ厳選した言葉を選んで書いている状態に最近気づいて、取り憑かれていたなとしみじみ思う。他人にとやかく意見なんて欲してないのに意見がとんでくるとわかって不用心なことはかけないからなぁなぁと敵をつくらない言葉を使っている。僕はすべて嫌だ、あそこで判断されんのが、ただ残念ながらあそこですべて判断する人間が存在するのがこの世の中だからそこは諦めよう、ここにくるやつは好き嫌いどちらにせよ僕に興味あるやつがくる、最高じゃん。興味ねぇのに突っかかっられることはほぼない、ここに突っかかってくるくらいなら本物だと思う、色々本物だとおもう。

鈴木実貴子ズの鈴木実貴子さんがTwitterとか公になるようなところで一切告知もせず2011年くらいから黙々と胸の内を吐露しているブログが好きで好きでたまらない、簡単に見させようとはせず、誰かに知ってほしいからとかでもなく、ただ黙々と。気持ち悪いかもしれないけどいちいちHPまでとんで、ブログにアクセスして読んでいる、僕は熱心な購読者だ。気持ち悪いかもだけど世の中や世間に対する見方に感銘をうけたり、あの歌がああいう歌だったのかとか、わかりにくいけどわかりやすく公開してしまうと途端に萎れてチープに枯れていってしまうような事をこっそりブログに書いている事に僕は探した人間だけが辿り着けてみることができる宝物のような喜びを感じたりしてる。世の中には簡単に辿り着けなくていいところがある。好きな人だけが立ち寄ったり、辿り着いたりするところがある事は絶対に必要だから。

全部わかりにくかったりアクセス悪くする必要はないけど、理想はそうでしょ。もっと知りたいの状態を僕は作っていきたい。

さて、上段と下段で内容がガラッと変わったけど(変わるように書いたけど)伝えたいことがうまく伝わっているといいな。見てる人向けに書いた文章だから、内容とこれらを書くことが根本的に内容と沿わないかもなって思ったけどこんな長い文章読んだ人ならあたなたは僕に興味があるか、興味湧いたかだとおもう、だからしょうがないとおもって一回くらい大目にみて。
おやすみ。

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