6月25日


昨日のライブの余韻が残っている。
なにも考えず、ただ突っ立ってるだけ
その目の前にある音に浸った。

いつの間にか、生活は激変した。
音楽を聴けなくなっていた。
長いライブを続けていて、辛くもなんともなかった"はず"なのにもう動けないとガソリンがきれたみたいに微動だにできなくなっていた。

そうすると一度もかかったことのなかった流行病だったものに侵されて、強制的に家からでられない一週間がはじまった。

なにもしない、を久々やっていた。
なにも考えない、音楽もながさない。
ギターも、ペンももてない。
本をめくることもしない、ただ起き上がって流し込むように水と食糧を身体にいれてぼんやりしていた。

疲れていたんだと気づいた。
疲れていたんだ、なにもかも。

そうしていくうちに、早急に追われるように構築していたスケジュールをバラすことに決めた。


永い時間を彷徨っていた気分で、そこから解放されたかった。1人で充分やった、どこだって行った、友達も増えた。ギチギチに締めていた鎧の紐をほどきたかった。


熱が下がったタイミングで、少し映画をみた。
映画館で見たかったものだった。諦めて家でみたとき、久々に心が揺れた。やっぱり映画館でみればよかった。

他人のどうだとか、こうだとかより、今とても自分のペースで生きたい。

そう心から思ったのは、あんまり他人にペースを決められたくなくなっていたからだと思う。
(誰々がこんなふうに変化してて、負けられない!俺も動くぞっとか、アイツにああ言われたから悔しいからやるぞみたいなこと)
そういうのに、心動かされるのは疲れた。
心底どうでもいい。

もう立派に1人の音楽人として、立っている。
というよりも、もう縋るとか、取り巻きをつくるとか、界隈をつくるとか、そういうので形成されている自分ではなくなったのだと思う。

すごく自分本意で申し訳ない、ワガママ言って申し訳ない、と思う側

この自分の独り歩きをもう少しだけ許してほしい。俺は俺でいたい、そして俺の感覚の歩幅で歩きたい。

そんな以前ほど活発に動けてない俺に見かねたのかこのあいだ、親しい友達に「お前はなにがしたいんか」と問われた。

「わからないけど、思う方向に一番舵をきれてる」って伝えたら

「それでいい」と言われたのが、とても救われた。こんなしどろもどろな自分にそれでいいと伝えてくれて、大丈夫と声に出して言葉にしてくれたことがどれだけ助かったか。

俺はそうしていつも人に救われてる。
その人々の中にいるとき、どうしてもチョケてしまう。笑顔が、笑いがそこにあってほしい。逆にそう思わない人の近くにいるときは黙ったままだ。無理しておどけていない、アレが本当にありのままな気がする。

ちょけたりバカな話をしたりしてみるけど、結局その人達は時間が経つにつれてゆっくりと話始める。ちょうど2人になると毎度そう。


周りの人と共に生きている、環境を共有してる、時間をともにすごしている。だからこそ、場面にあったものがある。

だから、しっぽりと訪れるあの時間をくれるあの人たちには救われる。おちゃらけもなしに、話を聞いてくれて聞かせてくれる。

その時ばっかりは、誰とも共有できない自分とその人の時間だ。

お互い見せてなかった本音が綻ぶ。

兄貴達


そんな器用じゃない自分を見透かされてるのは些か恥ずかしくもある。

聴けなくなっていた音楽も、自然にまた聴けるようになっていった。

ライブハウスで鳴っていた音楽が心臓を動かしたと思う。

そうやって自然に、次に自分が音楽を鳴らす瞬間まで待とうと思う。

今はとことん、なにもしないをやってみたい。

それで、また自然と音楽を鳴らしはじめるのだと思う。

今はそうしています、それでいい。

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