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バッテリー

中学の頃、人とあまり馴染めなかった。
野球が好きだったから、母にワガママを言って中学の野球部にははいらずに地元のリトルリーグ(中学野球はボールが軟式、リトルリーグは高校やプロと同じ硬式ボールを使った野球。)に入部させてもらった。

そこでも人と馴染めなかった、なんせ僕以外は顔見知りだったり、仲良かったり。それに地元の少年野球の精鋭みたいな人間が多くて特別野球が上手くてはいったわけじゃなかったから人見知りと消極性ばかり目立って居場所がなかった。正直途中野球なんかする事が嫌で、そこに行くのが本当に嫌でしかたなかった。キャッチボールするときですらあぶれるから中々誰々とやろうなんて言えなかったし、ペアがそんなに喋らない奴だととにかくちゃんとボールを投げなきゃと肩に力がはいってちゃんと投げることができなくなったり。当然そんな感じやったから全然チームメイトの輪の中にはいれなかった。はいれてもすごく隅っこで人の話聞いてクスクス笑ってるへんなやつだった。

反抗期と思春期のあいだの仲、親にそんな不甲斐ない自分を見せたくなかったのと、せっかく高い部費を払ってもらって通わせてもらってるんだから途中で辞めるなんてこともできず、こんなんだったらガッカリされるんだろうなって思って、家にも中々帰れなくなっていつもおばあちゃんの家を経由して犬に今日あった事を話して気持ち落ち着いたら帰っていた。

そんな生活をしていて1年経った、僕等のクラブは5月に先輩が卒団するから新チームになるのが早い。新チームになって下っ端だった自分にも背番号をもらうことができた。

20番まである背番号で、1〜9はレギュラー10はキャプテン11〜18は準レギュラー、あとは補欠。

下級生もはいるからここの争いになるんだけどぼくは19番をはじめてもらって、ベンチ入りすることができた。1年ぶりにブルペン(ピッチャーが投球練習する場所)入りすることができた。

その時にYというキャッチャーと初めてバッテリーを組んだ。中学生なのに170cmはあるんじゃないんだろうかと思うほど巨体でそれでいて80kgオーバーの体重。みんなが想像するようなキャッチャーという感じだ。

彼はおおらかで、面白かった、クラスのなかで女子に好かれるタイプのムードメーカーだったんじゃないだろうか、優しくて、人の事をよく見ているキャッチャーだった。

ピッチャーとキャッチャーはお互い意思を合わせないといけない、信頼関係が必須なポジションなんだ。キャッチャーはすごく知能派なポジションで司令塔の役割を果たす、ピッチャーはバッターと戦う唯一のポジションだ。勝つためには1人で野球はできない。バッテリーというのはお互いの事を遠慮とか、控え目にとか、そういうの無しで互いと向き合っていかないといけない。僕等はそういう関係性にならないといけなかった。

ただ前途したように、僕はうまく自分の意思を言えなかったし、はい、っという返事以外しなかったんじゃないかって思うほど自分の意思なんてもんを放棄していたから彼を困らせたと思う。彼は言った「もっと自信を持ってほしい、大丈夫だから」と。

それから彼から気にかけて話をかけてくれるようになった。徐々に徐々に、少しずつ僕は心開いていった。それからの野球は少し楽しかった、練習に行くのも苦じゃなかった。
初めて勝利投手になった日にはしゃぐように1番に喜んでくれたのは彼だった。

そんな彼が最後の最後に怪我してしまってキャッチャーじゃないポジションではなくなった、責任感もあって、プライドもあって悔しそうにしている僕はもてるだけの拙い言葉をかけた記憶がある、僕はレギュラーになることはなくそのまま補欠選手でそのクラブの最後の日を迎えた。

うまくいかないもんだなぁって思った。神様はいないって思った、自分の事より側で努力を重ねていた仲間の不幸を嘆いた。それなのに彼は「お前は継続する事ができるすごい奴だから、球をうけてて楽しかった、バッテリーを組んでくめて良かった、野球辞めんなよ」って言ってくれた。補欠選手の自分なんかにまでそうやって言ってくれる彼の言葉が今も身体全体に残っている。

それからはみんな各々の中学での受験勉強に勤しんだ、僕は彼とは違う高校に通うことになる。高校にはいっても野球は相変わらず続けた、あれは意地みたいなもんだった、途中で投げだすことはしたくなかったし、彼の言葉の意志を守りたかったし、そうでありたかったから。とはいっても相変わらず補欠で、ベンチ入りすることなく高校野球は終わる。他校にいった彼と対戦するっていう密かな今までの恩返しをしようって目論みは叶うことなく終わった。

それから月日がだいぶたった。18歳から8年は経った。その間に会ったのは成人式の時だった、その時は抱きしめられて会えて良かったと言われた。それからは会っていない、風の噂で彼は大学でも野球を続けそのまま大学職員になったらしい。

僕はというと相変わらずフラフラしてる、世間体でいうと、ど底辺だ。夢を追っている?とかやりたいことにまっすぐで?とか他人様がわざわざ名前をつけてくださっているがやっているこっちとしてはフラフラな安定もしない毎日を必死こいて生きてるだけだ。そんな綺麗なもんじゃない。


今日久々にその彼と会った、年末年始に働いている地元のBARでばったりと会った。

会うなり抱きしめられた、身長は然程変わらなくなったはずなのに相変わらずデカイ身体で僕を抱きしめた。

実はInstagramで僕の動向を見ていてくれたらしく第一声が「お前すげぇよ」だった。

お前すげぇよって、中々言われない。さっきもいったように売れてないミュージシャンは側からみたら底辺だ。ましてや、本業と語っている音楽をやっている瞬間ではなく、年末年始に出費もあったからこそこそと地元のBARでバイトに勤しんでいる場所で「なにやってんだよ」とか、「いい加減落ち着いたら」なんて言われることはあっても「お前すげぇよ」なんてそんなお言葉いただけるなんて思ってもいなかった。

「おれはお前のCDが買いたいってことは伝えとくからな、はよ大分(いまの職場が大分)までライブしに来てくれ、ずっと応援しとるからな」

そう言って彼は帰っていった。

なにも変わらないんだなと僕はあっけらかんとした、そしてちょっとだけ笑った。

例えばあの時、野球をやめていたら。例えばあの時彼がいなかったら。例えばあの時、親が僕のワガママを聞いてくれていなかったら。

今の自分ってもう少ししょうもなかったんだと思う。長い年月が経った今でも変わらないものだったり、関係だったり。そういうものが僕の財産だと思う。一朝一夜では築くことができないものを確かに噛み締めることができた。

久々に会えて良かった、俺もこんなんだけど頑張っているよ、幸いな事に理解者はいるよ、いつか君がくれたものを僕は返しにいくよ。


そう心の中で再確認した、夜は寒くなって自動販売機で缶コーヒーを買って啜りながら、見上げた帰り道の夜空には眩く星が光っていた。流星群が通りすぎた。

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