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愛おしくて、切なくて、そして悲しい。

私の母のことである。母は2014年に特養へ入所し、今は療養型の病院に入院している。要介護5、ほとんど寝たきり状態にいる。持病の緑内障が原因でほとんど目は見えない。聴覚は生きているので声は聞こえるが、言葉を発することはできない。

病院はオンライン面会、2週間に1回15分間だけ。それも今回の波で中止となってしまった。それでも私は毎週末、手紙とちょっとしたグッズを届けに病院へ行く。手紙は看護師さんが読んでくださることになっていて、その看護師さんから、ある時は「手紙を読んだらお母さんが泣いていました」と電話が入ったり、またある時は「届けてもらったCDをかけたら声を出していました」と連絡が来たりする。

母とのやり取りを通し本当に色んな経験をした。そうした中で初めて覚える感情や思い、初めて抱くやるせなさ、そして初めて悟る自分の無力さをこれでもかというくらい感じてきた。それと同時に、自分の人生を考える時間や生きるとは何かを考える時間をたくさんもらってきた。

noteを始めるきっかけは、50代のつれづれを自由に綴りたいと思ったから、と書いたが、実は母とのことを書き留めたいというのが一番の理由かもしれない。いや、書き留めるだけなら既に実行済みである。

これから介護に携わる人たちに、認知症に対して不安を持っている人たちに、伝えたい何かがあるのだろう。

私自身、もっと知っていれば、もっと本気になっていたら、もっと違う道があっただろう…そんな「もっと~だったら」を日々繰り返し考えてきた。
きっとこれからも続いていくのだろうと思う。

ただ、分からないなりに知る努力をして、分からないなりに行動しようと試みてきた。正解のない答えを出すことは、そしてたとえ家族であっても自分以外の人生を背負うことは、本当にしんどいと何度も思った。
もちろん今もその渦中にいる。

そうした自分の経験を言葉にすることで、誰かの、何かの役に立てるならと思う。どのように書いていくかまだ思案中だが、ひとまず有料記事にしようかと考えている。理由はいろいろあるけれど、一番は母へのリスペクトの念だろうか。母に許可なく記事にするわけで、母に言ったら「ギャラちょうだい」と言われそうだ。そんな母でもある。

この記事のタイトルの意味を伝えていけたらと思っている。
私が今、母に対して思うすべてだから。


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