『花束みたいな恋をした』

ショートフィルムみたいな空気感の予告と、タイアップされていたAwesome City Clubの曲に惹かれて、見に行った。

「期待」っていうのは、「どんな繊細な心理描写なんだろう」「どんな風に感動する物語なんだろう」「きれいな画面がみたい」、そんな期待だったのかもしれない。


物語を通して、私は考えたことがある。
映像はきれいにつくられている。
だけど、そこには確かに現実や、生活感が落ちていて、それが逆に見る側との心の距離を近づけると思った。


麦くんの先輩は、物語の途中で亡くなってしまう。原因はお風呂で溺れてしまったこと。
先輩はかつて、「社会性と協調性は才能の敵」と語っていた。
そう息巻いていたころは、ただその時をなんとなく過ごしていて、何もわかっていなかったのかもしれない。
夢を追っていても、先輩は結局現実の波に飲み込まれ、溺れて亡くなってしまった。

絹の母親は広告代理店で働いており、「社会に入るのはお風呂」と語る。
入るまでが面倒で大変だって思う。だけど入ってしまえばよかったと思う、そういうものだと。

先輩は、社会に出たら(お風呂に入ったら)溺れてしまった。

理想を追う仕事、自分の現実的な生活のための仕事をするにしても、社会性や協調性が要らないということはない。
人は独りで生きているわけではなく、社会や、その中にあるコミュニティも、すべてが周りの人間との繋がりによって出来ているものだ。

自分ひとりだけで生きていく、それは長期的にみれば精神的な孤独に繋がる。
そして、気づくべきことから目をそらしたまま、溺れてしまうかもしれない。
「社会性や協調性は才能の敵」と語った、先輩のように。


麦と絹は互いに好きなサブカルが重なっていたことで急速に距離を縮める。
押井守を知っていたこと、天竺鼠のライブを見に行こうとしていたこと。
きっと、誰よりも特別だと思いたかった。そのきっかけとしてサブカルを選んだ。
急速に距離を縮め、同棲まですぐに進めた。
就活の時期が近づいても、そのまま楽しく過ごしていた。二人でただその時間を共有して、笑いあっていればそれだけでよかった。
やがて2LDKの家賃の支払いが難しくなり、楽しいだけではやっていけない現実に気が付く。
現実に向き合い、前に進まなければいけいないことに気が付いて、互いに思いあっているのにすれ違っていく。

麦と絹はなぜすれちがったのか。それは、相手を思いやるあまり自分の本当の姿をさらけ出せず、どこか合わせていたから。趣味が同じでも、好きなものが同じでも、感覚が合わなけばだめなんだ。

仕事観についても、絹は「楽しく仕事がしたい。すきじゃないことはしたくない」という。それに対して麦は「そんなものは遊びだ」と言う。
広告代理店の仕事は遊びなんかじゃない。先入観や、麦が絹と感覚が同じでないとだめだと願っていたとことが上手くいかなくなった原因なのだと思う。
恋愛観についても、絹は愛情が無いのに変なタイミングで麦がプロポーズすることに違和感を感じ続けているのに、麦はそれに気づかない。考えることを放棄していたのかもしれない。

感覚が全く同じなんて人間はロボットじゃないからありえない。でも、愛しているから同じでありたいと願ってしまう。
お互いに向き合うということ、些細なことを見て見ぬふりをしないということを二人はするべきだった。
でもきっと、感覚は合わなかった。
思い出は消えない。ずっと、心の中に残り続ける。
だけど、別れるべき時も来てしまう。
私たちは現実を生きている。
忙しくて自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうと何が何だか分からなくなってしまう。
だから、自分がしっかりしていないといけない。
生きることは、愛することは簡単じゃない。だけど、私たちは生きなければいけない。
愛することも。生きることも。絶対に諦めてはいけないんだ。


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