一人旅紀行岡山 かぼちゃのある島


「岡山駅」という文字が目に入る。
私はその日晴れの国を訪れた。そして在来線に乗り込み、しばらく揺られて黍団子を片手に島へと向かう。
駅に着き、なんだかセクシーでどこかお茶目な顔の女神像を尻目に船着き場へ。乗船券を買い、宇野港から海への旅に乗り出す。


海はきらきら飛沫をあげて、弾ける炭酸水の泡のようだった。目に痛くない光の粒が私の感性を刺激する。海って生きているんだな、そう感じさせられて、旅のはじまりの場面できれいなものを見れた心は既に浮足立っている。これから時間の経過とともに見られるであろう海の表情を心待ちにしながら、潮風を吸い込んでぼんやりとする。何も考えずにただ風や海や光を感じる、こういったゆっくりとした時間が、この旅でのかけがえのないお土産になっていると思った。丸いドーナッツみたいな浮き輪を見ながらこれから出会うものたちについて想像を巡らしているうちに、船は島に到着した。
宮浦港に着き、島に上陸した。「直島」に行きたいと思ったきっかけは草間彌生の作品だった。草間彌生を別段好んでいるというわけではない。だけど、辛子色で毒々しい柄なのに可愛いころんとしたフォルムで、抱きしめられるくらいの大きさで構えていて、現実の空間の中に非現実的な物体として存在しているというちぐはぐな雰囲気に惹かれたのだった。港から少し歩いたところにそれはあった。周りには韓国やヨーロッパから来たと思しき観光客がいて写真撮影をしている。私には一人で訪れているので、撮ってくれる友人がいない。仕方なく観念して自撮りで済まそうと思った。
そこで、白人の観光客の女性が英語で撮ってあげるよ、と声を掛けてくれた。旅先の人との出会いが、些細なものでも温かいとその時感じた。テンションが上がっていたので、思わず両手を挙げて万歳のポーズを一人で躊躇いもなくとった。楽しいので恥じらいなんてものはどうでもよかった。旅は刺激的だ。
念願のかぼちゃとの撮影を終え、ベネッセアートサイトへと向かう。屋外展示になっていて、極彩色の彫刻たちが点々と芝生の中で立っていた。
私は彫刻が好きだ。直接傍にいて触れられるから、設定上は異世界のものなのに同じ世界にいるような感覚を体感できるからだ。


動物をモチーフにした彫刻が殆どで、どれもお茶目で南国的な風体をしていた。色使いは子どもの遊び心が自由に炸裂したクレヨンみたいな感じだ。動的な曲線がそれを更に助長しているように見えた。
私はある彫刻の前で立ち止まる。読書をしている紳士と犬のような生き物の彫刻だ。紳士の横には座れる空間があって、誰かを待っているようだった。私は早速紳士の横へと腰掛ける。
せっかくなので写真を撮りたいと思い、傍に一人で立っていた白人の紳士に声を掛けた。“Could you take my picture?”
文法的に正しいのか自信が持てないままとりあえず話してみた。自分の口から零れた拙い発音のジャパニーズな英語。それでも伝わったらしい。紳士は快く写真撮影を承諾した。先ほどのかぼちゃ前での撮影と今回で直島の外国人は優しいと学習した私は嬉しくて変顔をした。変顔もしっかり見てくれていた紳士は一言
“funny face!”(変顔だネ!)
と返してくれた。日本人のお茶目さが伝わったようだ。私はお礼を言って、地中美術館へと向かった。
地中美術館は安藤忠雄設計だ。一見シンプルな外観は都会的にも感じられそうだが、島の中に位置しているとまた違う雰囲気を醸し出す。ひんやりとした館内は音がよく響き、地下は地底世界のようだった。荘厳な自然に一体化している建築だと感じた。
時間がないので周遊バスで元の場所に戻ると、日が暮れかかっていた。目の前には水平線に沈みかかっている夕陽が見えた。アートサイトで購入した「I♡湯」の象のフィギュアを夕陽にかざしてカメラのシャッターを押す。帰宅すればきっと訳の分からないガラクタなのに今は愛おしく思えた。
日が完全に落ちて、辺りは暗くなった。
現代アートは正直よくワカラナイ。だけど、そのヘンテコさがツボだったりする。ヘンテコなものは理解しがたい。考えさせられる部分が沢山ある。だから面白いし見ていて飽きないのだ。そんなアートみたいな生き様をしていると言われてみたいものだ。


昼間とは全く違う顔の海を眺めながら、時間通りに行動できなかったなあと思う。でも後悔は全くしていない。時間通り、セオリー通りに行動するのは時に可能性を狭めてしまう。出会えたはずのものに出会えなかったというシナリオを描いてしまう。型破りで自由なのが旅の醍醐味というものではないだろうか。


港に着き、時計を見て慌てて在来線に乗り込み倉敷へと向かう。
繁華街を歩いて、女子一人がこんな時間に出歩くのはいかがなものかという疑念が過る。一方で、こんな夜分に一人で歩いている私はかっこよくて勇ましいという謎の男気が湧いてくる。旅は人をトリッキーにさせる。旅の時間は、いつもと違う自分にしてくれる。といいながら、そうさせているのは自分自身。全部自分で決めて気ままにぶらぶらして。そのまま男気を歩調に表しながら倉敷ラーメン屋の暖簾をくぐる。


時計はもう22時を回っていた。女子力なんてものはもう見えない。お腹はぺこぺこだった。店内にはおじさんと男子大学生しか箸を突いていなかった。「女の子が入ってきたよ。男ばかりだからちょっと嬉しいね」そんな話を耳に挟みながら、煮干しの出汁の倉敷ラーメンを大食い選手権チャンピオンさながらの速さで注文した。10分で食べ終えた。女子力ポイントのメーターはもはやゼロを指している。
満腹になった体を揺らしながら、チェックインまでのタイムリミットを数えつつ私は疾走した。とても辛かった。なんとかラーメンを押さえ込み、「倉敷グローバルホテル」の看板を見つけ一息つく。ビジネスホテルは狭かったが一人旅にはちょうどよかった。広いと人間のスペースが余って寂しさに駆られてしまう。せっかく楽しんでいるのにそんな思いに駆られるのは嫌だった。今日一日あったことを思い返しながら小さな箱の中で眠りについた。

翌朝は早起きして倉敷の街中を散策した。


ガイドで目星をつけた店を一通り廻り二周目に差し掛かるころ、ひっそりと佇む一軒の店を見つけた。中は薄暗く、木のにおいがする。そこは、本物の草花を特殊な液に浸し固めたアクセサリーを取り扱うお店だった。レジンとは異なり、長期間色褪せず長持ちするらしい。そのお店独自の手法なのだそうだ。
私はこういう手仕事から生まれるモノがとても好きだ。一つ一つ丁寧に作られたそれは人間の体温を感じる。自然派で、肌に馴染む心地がする。人間はもともと自然の中に生きていた生き物だから、体の中から湧きおこるそれはごく当たり前の感覚なのかもしれない。
店主の初老のおばあさんが山で採ってきた花や草、木。それらを観光客が纏って都会に戻っていくのは少しちぐはぐな感じがする。自然の中のものは自然の中で生きる人たちだけに隠し持っていてもらいたい。そんな気持ちを抱きつつも、都会にほど近い地域に住む私は草花の可愛さに負けて購入した。これから私と一緒に年を取って深みを増していくアクセサリー。おばあさんになっても馴染んでいてくれそうだ。
夕暮れにさしかかり、私は新幹線に乗り込み帰路に就いた。
旅のお土産について少し考えてみる。財布からお金を出して手に入れたもの。目で見て、経験して、五感で捉えたもの。そんな色々から考えたこと。旅はお金で買える。だけど、何を手に入れるかは、自分自身の感性にかかっている。

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