たりない母、「さよなら たりないふたり」から勝手に子育てを学ぶ…


人は誰だってたりていない。
完璧な人間はいない。


息子が不登校になり、荒れに荒れていた初期。私は何とかしようと(色んな意味で元に戻そうと、頑張らせようと)必死だった。

でも気付いた。

息子を解放してやらねば!!


若林さんの言葉を借りるならば、「私は息子の首の鎖を外してやった」のだ。

「熱がないのに学校を休んではいけない」
「大人の言うことを聞かなければいけない」
「誰とでも仲良くしなければいけない」
「勉強を頑張らなければいけない」
「手を挙げて発言をしなければいけない」
「暴言や暴力はいけない」
「泣いてはいけない」
「先生や友だちの悪口を言ってはいけない」
「時間に遅れてはいけない」
「約束やルールは守らないといけない」

こうして書いてみると恐ろしい。
本当に恐ろしい。


「ゲームばかりやっていてはいけない」
「体を動かさななければいけない」
「栄養バランス良く3食とらなければならない」
「早く寝て早く起きなければならない」
「ゴミはすぐに捨てないといけない」
「お金は大切にしなければならない」
「疲れた・嫌だ・面倒だ、などと言わないで、何事も頑張ってやらないといけない」

どんどん出てくる。まだまだ出てくる。
本当に恐ろしい。


そして、それができないとダメなんだ、できない自分も許せないし、それをやっていない友だちも許せないのだ。


本当に恐ろしい。


学校は、世の中は、目に見えない鎖だらけだ。がんじがらめで窮屈で逃げ場がない。


息子に学歴を求めて塾に行かせてはいなかったし、何かを無理にさせてはこなかった。特に厳しくしてはこなかった。

つもりだった。


だが、無意識に、無自覚に、家でも息子に鎖がついたままだったように思う。
自立に拘り、甘えさせてやれていなかったと反省している。


鎖が外れた息子は、暴れに暴れ、溜め込んでいたものを吐き出しに吐き出した。


もちろん性格も環境も人それぞれで、不登校といっても人それぞれだ。

ただ、繊細・過敏で、素直に全て受け入れ、外では「いい子」になってしまう息子には、家ではしっかり発散させてやらなければならなかったのだろうと思う。

失敗も、たりない部分も、ありのままを受け入れ認めてやらなければならなかったのだろうと思う。

私は息子を「たりている人間」だと思い込んで接していたように思う。

12年間、頑張って世の中に、大人が描く理想に過剰に適応してきてしまった息子。
しんどかったのだと思う。


息子に強い自我が芽生えたことによって、成長したことによって、私の子育てにおける「たりなさ」が見えてきた。

まさに、

「人間は常に新しい環境の新人です」だ。


反省する山里さんに若林さんが言った。

「スキルじゃなく人間全体を鍛えないと。スキルの事やってないで奥さまの親戚とかと喋った方がいい。」


私自身も「子育て」や「不登校対応」や「対息子」という目先の、小手先のスキルを磨くのではなく、

人として鍛え、人として器を大きくしていくことが必要なのだろうと思う。


何だかよく分からなくなってきたが、これからもたりなさにもがきながら生きていこうと思う。

息子にももがきながら生きていくだろう。
靴下を壁に投げつけたとしても、将来オムツをはくような事があったとしても、否定せず見守ってやろうと思う。


人は誰だってたりていない。
完璧な人間はいない。









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