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助けてください、と言えない

noteなんか書いている場合じゃない時こそ、
noteを書きたくなるという大いなる矛盾をはらんで、はや幾年。

もちろん今も書いている場合ではないくらい公私とも忙殺されている。
やることが終わらなさ過ぎて入ったコメダ珈琲下北沢店で、
気づいたら書き連ね始めている。

今日はこれを読んでくれているみなさまに、少しパーソナルな話を。

僕の内側の葛藤もきっと誰かの何かのたしになるという、少しの善き心と、
これを話さないとおかしくなりそうだけど話す相手がいないという、
大きな危機感から。

今年の夏、体調を崩した。
産業医に、ひとつに定めず公私にわたって色々な事をした方がむしろいい、といわれたので、一念発起してやってみたかった脚本スクールに通い始めたりもした。が、面倒な仕事や会議が多いせいで、来週の〆切までにアウトプットする気持ちの余裕がない。

そんなこんなで結局、「しばらく休みたい」と会社に言ったはずなのに、
産業医らの判断で休むことはかなわなかった。
(こんな詳細に書いて大丈夫なのかな?怒られたら会社辞めよ。)

最初は飲んでいた薬も、
なにかのきっかけで仕事が忙しくなった瞬間にパタリと飲まなくなった。

そういえばちゃんと毎日飲んでいた時は、きちんと起きて朝ご飯を食べていた。

今は寝起きで即携帯で打刻して、
ゾンビのように起きて、髪を整えるよりもまずパソコンを開いている。

そんで結局、またぼろぼろになっている。

これの何が楽しいのだろうか。

僕はいま、あまりにもいろいろな悩みを抱えている。

今までの人生をよく振り返る。
「責任感」「優しい」あたりが典型的に自分に付きまとってくる言葉だった。そうやって何かを課されて、それにこたえる。そうすると、感謝される。その繰り返しでここまで生きてきたと言っても、差し支えない。

自分の意思を無視して、誰かのためにすること。
相手が期待している言動や行動を想定してそのようにふるまってみること。

でも別にそうしたところで、相手がこちらが望んだ反応をしてくれるとは限らない。相応の評価が返ってくるとは限らない。

結果、「責任感があるね」「優しいよね」と言われる。正直クソだ。
言う方からしたら、
そうやってレッテルを張れば、それを盾にいくらでも動かせるから。
自己責任社会?クソだ。利他的なやつが損をする。

そんなこんなで、
今は優しくなんかなくていい、優しくなくたって私はあなたのそばにいる、という少々メロウな言葉が欲しい気分だ。

話が急に変わるが、この世界にたくさんの人がいる以上、
誰かと共に生きること、話し合うこと、尊重し合うことを避けて通れない。
僕はそれこそがこの世の醍醐味だと思っていて、「人」こそがこの世界の個性だと思っている。そういう意味で、他人に興味を持って深堀ることや、本当の本当にピンチな時に助け合える関係を作ることが、人ひとりひとりを生かし、活かすことだと信じている。そしてその連鎖が豊かな生活を作るものだと信じている。

社会に出て思うのは、「自分のことは自分でするしかない」、言い換えれば「他者への無関心」「強烈な自己愛」「自分のことしか見る余裕がない雰囲気」的オーラを醸し出している人間を多数観測する。

正直、僕はそういうものに辟易している。
がっかりしすぎてしまって、ちょっと立ち直れないのがいまだ。

一方で、無意味な利他はやめようと、今までの旧い「やさしさ」を捨てようとしている自分がいる。
でも根本では、まだ「やさしさ」を信じている自分がいて、どこかできっぱり他人に壁を作ってしまう風潮に、辟易している。

僕が追い求める、利他ややさしさってなんなのだろうか。

ただ、いまはただ、お前の言っていることはある一面で間違っていないから、安心して寝ろ。俺/私がいる以上は大丈夫だ。
と言ってくれる誰かが欲しい気分だ。

だってこれだけ今まで誰かに「やさしく」して、
「やさしさ」について考えてきたんだから。ちょっとくらいいいでしょ。

でもなぜか、助けてください、と周りの人に言えない。

おやおや、閉店の時間だ。

停滞は続く。


この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。