2020年 F1イタリアGP「こぼれ落ちた希望に絶望を見る」

触れられたくない不都合な真実というものはどこにである。
我々が愛するF1グランプリという小さな世界にも、そういったものがある。
それが露呈したのが2020年のイタリアGPだった言えるだろう。

まずグランプリ前にウィリアムズの身売り問題があった。
聖なるレーシングチームとして、80年代からその影響力を発揮してきたウィリアムズチームだったが、ここ10年はプライベーターゆえの経営の行き詰まりが目に見えて顕著だった。
サー・フランク・ウィリアムズが半引退状態となり、愛娘のクレアが陣頭指揮をとっていたが改善はされず。
近年は最強と名高いメルセデスのユニットを搭載するものの、低迷がつづいていた。
少しイジワルな言い方をすればウィリアムズというチームは栄光の90年代の利息のみで生きながらえてきたチームであり、クレアはそのアガリをただただ浪費してきたと言える。
クレアが迷走する中、原資はどんどん目減りしていき最終的には今回の身売りに繋がった。
レーシングフリークたちは、この誇り高きレーシングチームのオーナーが変更することを嘆き悲しんでいるが、事実としてあるのはF1にありがちなただのチームオーナーの変更である。
トップランカーであるメルセデスやレッドブルがそんなことをするのならば驚くが、言ってはなんだが下位をひた走るウィリアムズなので驚きは無い。
むしろ、私が驚いたのがクレアに対する世間の甘やかしの声である。
この状況で追いうちをかけるようなことは言いたくないが、クレアがここ数年やってきたことは全く評価できない。
状況をまったく改善させることなく、自身への批判に対してはフェミニズムの論調を絡めた形で、反論になっていない反論を繰り返す。
それはまさにただの駄々っ子のようで、チームをマネジメントするということに対しての資質をまったく感じさせないものだった。
そういうチームが生き残りをかけて熾烈な競争がおこなわれているF1で生き残れるものか。
クレアが通用しなかったのは、F1という現場が男女差別もなにも関係なく、ただひたすらその『能力』によって競われているという証左である。
クレアがその手のことを言い訳につかうこと自体が、性差を超えたところでF1という現場で奮闘する女性を馬鹿にした話である。
そもそも彼女は、他の大多数が渇望してやまない『血筋』というパスポートをもってこの現場に入国してきたでは無いか。
その自身の優遇された立場にはだんまりで、性差についてああだこうだを言うのはフェアでは無い。非常に神経質な話であるのでグランプリピーポーはこの手の問題に口をつぐんでいるが、クレアのような存在こそがモータースポーツにおける女性の立場を不利にしているといえる。
今回の失敗はクレアの失敗であり、決して女性の失敗では無いのだ。

そしてもう一つの不都合な真実。
それはメルセデスがいない方がレースが面白いということだ。年に1回ほどある、フォーミュラワンのワンカテゴリレース!
これが古典派、ロマン派にはたまらないモンザで開催なのだから、たまらない。
勝者はアルファタウリのガスリー。前身のトロロッソ時代にもここでジャイアントキリングをかましていたが、彼らにとってモンザはそういうシンボリックなサーキットである。

レースの経緯についての詳細は省くが、今日もまたレースを制圧していたハミルトンがペナルティをうけて最後尾まで転落。
そこで勝機が回ってきたのがアルファタウリのガスリ―とマクラーレンのサインツ。
この2台の争いは最終ラップまで、刺激に飢えていた我々を楽しまさせてくれた。
レースの持つ、コンペティションの愉しみ。これを存分に味わうことができる幸せを再認識できた。おそらく期待外れの結果に終わってしまった狂信的フェラーリファン達も、この結果なら満足だったのではないか。
それくらいモンザのトラックを駆け抜けたガスリ―とサインツはF1が本来持つ楽しさを表現してくれていた。

ただ、手放しでは喜べない。
ガスリ―もサインツも自力でもってメルセデスを引きずり落したわけではない。
あくまでも今回のレースはハミルトンとメルセデスのミスが演出した結果にすぎないのだ。
おそらくこんな展開は今シーズンにあと1回あるかないかであろう。それくらいに稀有な出来事だったと言える。
レース内容は確かに高揚感をもたらした。だがその分、熱が引いていくときに感じる寂寥感もまた大きい。
これはとても残酷な話だと思う。我々はF1のもつ本当の面白さを知っている。知っているが、それを見ることができるのはごく僅かな偶然が作用した際のみであることも知っている。
このような景色は今シーズンはもう二度と見る機会が無いかもしれない。

表彰台で喜びを爆発させるガスリーを見て、微笑ましい気持ちになったのと同時に胸が苦しくなった。
サーカスはまだまだ続く、だがそこに愉しみを見出すことは果たしてできるのだろうか。
イタリアGP、パンドラの箱から最後に飛び出した希望は我々レースフリークに呪いをかけてしまった。
だが、いまはその希望にすがるしかない。我々はその希望を頼るしか無いのである。面白いレース、心躍るバトル、そういうものをもう一度見たいと切望しようではないか。
そしてもう一人、そのパンドラの箱から飛び出た希望を強く信奉している人がいる。
モンザを地元とするマシンがパラポリカで無残に散る中、2位を獲得した男、サインツである。あの残骸を横目に表彰台に上った彼もまた我々同様に、来シーズンに向けて希望を強く信じる男なのである。

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