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ホンダ F1撤退に寄せて 「水膨れた魂の行き先」

ベルギーもイタリアもトスカーナもロシアについても書いていない。
そんな怠惰極まりない姿勢でF1に向きあっているのだが、これについては書いておこうと思った。
書いておかないと後悔する。この今の感情をしっかりとログとして残しておく。
内容については二の次三の次だ。数年後、F1というカテゴリのお葬式が営まれる。その際にこのテクストを読み返そうと思う。

10月2日、ホンダが2021年をもってF1からの撤退を表明した。
正確にいうとF1はコンストラクターと呼ばれる車体製造者によって争われるカテゴリなので、ホンダが撤退と言っているのはあくまで車体にのせるパワーユニットと呼ばれるエンジンとその周辺の回生システムの供給業務からの撤退である。

撤退に関する社長の記者会見は面白みの無い返答に終始した。
要はこれからくる電動化時代に向けて経営資源を集中させたいということ。
来るべき電動化時代、これは世界の自動車業界の避けられない潮流だ。まだ水素というウルトラCが残されているが、それだって燃料電池から電力を引っ張り出すので大きな括りでは電動化という枠に組み込まれる。
内燃機関とそれを補助するバッテリーというハイブリットシステムで欧州ブランドは完全に出遅れた。頼みの綱のディーゼルシステムはVW/アウディの醜いスキャンダルで頓挫。そうするともう、ルールブックを書き換えるしかない。
ヨーロッパメーカーは一気に電動化に舵を切る。
そこの流れにホンダは乗りたがっているのだ。

それはもうどうでも良い。
ホンダは株式会社だ。株式会社の存続意義はただ一つ、株主に喜んでもらうことだ。
株主に利益を還元しなくてはならない。
F1は株主に納得の行くリターンをもたらさないと判断されてしまったのだ。
これは企業活動なのでそれについては文句を言う資格は無い。
何度もこのnote上で書いているが、ファンとは「無責任な外野」の別名である。
責任を伴わない外野の発言などは、企業にとって雑音にすぎない。

だからこの撤退報道を受けてファンたち言う「ホンダには失望した」「もう次はホンダの車は買わない」は意味がない。
あなた方はホンダの車を買うべきではなかった。
そのお金でホンダの株を買っておくべきだったのだ。
大量生産品のクルマなんかを1台買って愛でるより、株を買ってホンダの身内になった方がその意思決定について何らかの影響を与えることができる。
株主でもないホンダ車ユーザーなど、ホンダにとってはタダのカモだ。
赤いバッチの煩いクルマを買って、幼児的な満足感を得ていて欲しい。ファンが買っているのはそう言う一種のドラッグだ。
他人の成功体験(≒ホンダのF1参戦)を自身の価値と勘違いさせ、無根拠の満足感を与えるアイテム。それが赤いバッチの煩いだけのクルマの正体だ。

レーシングスピリットを共有する?
笑わせてはいけない。このタイミングであっさりと撤退する企業にレーシングスピリットなどあるものか。
赤いバッチにそんなものは宿っていない。
レーシングスピリットを本当に手に入れたければ、とっととその赤いバッチの車を売り払って、週末はカート場に入り浸ろう。
それだけで貴方のハートにはレーシングスピリットが宿る。それも借り物じゃない。本物のレーシングスピリットだ。誰かとそんなものを共有する必要なんか無い。

そもそもホンダというのはそういう一種、無情ともいえる切り捨てを武器にしてここまで成長してきた企業である。
過去の3回のF1撤退もそう。市販車だってコンセプトが継続されない。
ぶつ切りのように歴史の波間に消えていく車種がどれほどあったのか。
そういうスクラップアンドビルドを誤魔化す為に教義として掲げていたのが、先のレーシングスピリットである。
現在、赤いバッチが付いている例のクルマだって最初の最初は、当時のホンダのイメージから一転した都会的でファッショナブな横文字職業の人々が好んで乗るような車として作られたではないか。

そういう切り捨て、よく言うと思い切りの良さがホンダの成長の原動力である。
そんなことを今の今まで見抜けなかったくせに、この期に及んで裏切られたなんて言うのは余りにも幼稚だ。
詐欺にあった方が悪いと言うつもりもないが、自分の信仰心を預ける相手を見誤った責任は確実にある。
今更、そんなことを言うのはアンフェアだろう。

後出しジャンケンと言われるかもしれないが、私はこの企業が第4期としてF1に復帰した時からこの企業のF1へのコミットメントの仕方に付いて批判し続けていた。
(ツイッターを遡ってくれればわかるだろう。)
それはまるで投げ出すように逃げ出した第3期の顛末を見ているからである。
あの時のホンダ(並びにBMW)は本当に酷かった。
逆にあそこで1年頑張った後に撤退したトヨタには尊敬の念すら覚えている。
ぐちゃぐちゃにして、いろんな人に痛みを押し付け、そして自分たちがさも被害者のように振る舞うその姿。
そういうものを見ていたので、第4期復帰の際の「今度は出たり入ったりしない」と言う発言なんてちゃんちゃら信じる気はなかった。
案の定である。
そもそもフェラーリを除いて、「出たり入ったり」しない企業なんてF1には存在してないのである。
フェラーリはそれこそ、その特権的立場を批判されることもあるがそれだけの覚悟を持ってしてF1に参戦してる。
F1の歴史を見れば、その他のチーム・メーカーは入っては消えていく、その繰り返した。
それは悪いことでも何でもない。それがF1なのだ。みんなフェラーリのようになりたい、その憧れが原動力で何が悪い。
ホンダの「今後は出たり入ったりしない」に嫌悪感を覚えるのは、F1の歴史を少しでも知っていればそんな軽い言葉は絶対に吐けないはずなのに、しゃあしゃあと言ってしまうことだ。
別に「第4期は成績が上向かなければ早期撤退もあり得る。そうならないようチーム一丸で頑張る」で良いでは無いか。
パワーユニットサプライヤーとして復帰した時点でF1を背負う覚悟なんかないことは明白だ。その程度の覚悟で、フェラーリとタメを張るかのような発言は本当にカッコ悪い。身の程を知らないイキリ方は見ている方が恥ずかしくなる。

案の定の結末だ。
先に書いたように撤退は悪くない。その判断は企業として正当な手順を踏んだ意思決定なので外野が口を出す資格は無い。
だが、その態度については自由に批判は可能だ。
その覚悟の無さに、その巨星の張り方に嫌悪感を覚えるのは、我々が大事にしているF1という場を面白半分で荒らされたからだろう。
F1という場、ライバル、ファンに対して敬意が余りにもなさすぎる。

F1そのものを背負うフェラーリ、世界最初の自動車メーカーとして内燃機関文化の最後を見守る覚悟のあるメルセデス、底辺からトップエンドまでレーシング文化の振興に力を注ぎ込んできたルノー、彼らと比べるとホンダの覚悟はあまりにも浅かった。

ホンダは去る。
久しぶりの日本人ドライバーの誕生も絶望的になった。
鈴鹿でのF1開催もなくなる可能性が高い。

だが、私はそこに絶望はしていない。
別に日本メーカーが参戦していなくても、日本人ドライバーがいなくても、F1を楽しむ目をここ数十年で養ってきたからである。
撤退発表のあった日のフジCSのグランプリニュースにおいて、カワイちゃんは「ホンダもいなくなって、日本人ドライバーもいないなんて何を楽しみにF1を見ればいいの」という趣旨のことを言っていたが、逆に問いたい。
その程度の視点でF1を見ていて何が楽しいの?と。
オートクチュールな車体、悪魔的なグリップを持つタイア、無駄の極地であるパワーユニット、パドック裏で渦巻くドス黒い政治、そして天に選ばれしドライバー達の共演。
それだけあれば十分ではないか。
どうしてそこに日本メーカーや日本人ドライバーを無理やりかまさなければならないのか。

F1は早晩終わるだろう。
ホンダ撤退の如何に問わず、興業として既に限界に来ている。
F1の名前は残るかも知れないが、オートクチュールの車体でレースをするなんていう贅沢はもはや許されない時代にきてる。

だがその最後のレースまで、私は(ときに文句を言いながらも)F1を楽しむ自信がある。
そこに日本メーカーや日本人ドライバーという要素は取り立てて必要じゃない。

結局のところ、ホンダという存在があったために、日本のF1ファンは本当の意味でモータースポーツへの理解が進まなかったように思える。
第4期中の今もそれは現在進行形で酷かった。
私は「狂信者」と呼んでいるのだが、ホンダの瑕疵については徹底的に目を瞑り、うまくいかない理由をジョイント先のチーム、ユーザーであるドライバーに求めて、徹底して責める、そういう幼稚的なファン、そしてそれを利用する一部メディア関係者。
そういうF1を純粋に見れない、歪んだナショナリズム発露の場に日本のF1が陥ってしまったのはホンダという存在があったから故の悲劇だと思う。
これについてはホンダに責任は全くないが、ホンダのブランディングのためのレーシングスピリットというワードが、結局のところ自分の中に誇るものがなにもない空っぽの人たちを惹きつけてしまった。
ホンダが撤退して、このような狂信者達がこの先どんな道をいくのかは分からない。
願わくば、F1というスポーツを狂ったプリズムを通して見ることの愚に気がついて欲しいがそれはあくまでもこちらの狂った価値観からの意見に過ぎない。
自分の楽しみは自分の中のメートル原器で測れれば十分だ。
そこに余計なファクターはいらない。

さて、長々と書いてきたが今回のF1の撤退は何だったのか。
人によっては「レース文化の終わりの始まりだ」なんてしたり顔で述べる向きもあるが、自惚れてはいけない。
ホンダの撤退にそんな価値はない。
先に書いた通り、F1は参入して撤退していくのが(ある一つのチームを除いて)当たり前のカテゴリだ。
ホンダはそこに流れている法則に従ったまでである。
そのこと自体は責められることではない。

だが、一つ覚えておかなくてはいけないこと。
今後ホンダが言う「レーシングスピリット」や「レースの現場で鍛えられた」といった類のワードについては1ミリも信用する必要が無いということだ。
彼らの言うそのワードは、フォードやプジョーやトヨタやBMWが言う程度の強度しか持たない。
世の中にはフォードにレーシングスピリットを感じる人もいれば、プジョーのしなやかな足回りにレースの匂いを感じる人もいるだろう。
ホンダの言うその手のワードは結局のところその程度のものだ。
イワシだろうとメザシだろうと信仰の対象は何でも良い。
人には信教の自由があるので、そのこと自体は責められるべきではない。
だが、少なくともフェラーリやメルセデスやルノーが世界最高峰の土俵で戦っている以上、現役ランカーである彼等の言葉と同一の強度はそこには絶対に無い。
そこを無視して、リングインの時のように軽い言葉を使うようならば、彼らに明るい未来は絶対にこない。
それだけは断言しても良い。

#スポーツ #F1 #モータースポーツ #ホンダ #フォーミュラワン #モタスポ


















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